「自分を大切にする」と「丁寧な暮らし」は決してイコールなわけじゃない
初回で終わってしまうかなと思ったけど、頭の中に色々な思考が巡るから、やっぱり言葉を綴りたくなる。ゴミみたいな感情はレポート用紙に書き殴って丸めて捨ててみてる。これが意外とすっきりする。
noteには思考の赴くままに書き綴る。とても贅沢な時間だなって思う。
しかもお香なんか焚いちゃって、洋楽を流してみたりなんかする。
自分を大切にすることが大苦手なんだなって、ここ数日思考を巡らせていた。それでは誰かを大切にすることなんて無理だよな、毎日一緒にいる自分自身を大切にできずに、赤の他人を大切にするだなんてさ。
私は恋愛が苦手なんじゃなくて、自分を大切にすることが苦手なんだって気づくことができた。
それでも私は自分を大切にしていた、つもりだった。
私の好きなことの1つであるお風呂に入ること、夜はテレビをつけずに静かな部屋でお気に入りのお香を焚いて、お気に入りのお茶を淹れて、本を読む。ヨガに週数回通ったり、大好きなお菓子屋さんでお気に入りのチョコレートを買う。週末にはチーズとワインで1人飲み。これって理想的な丁寧な暮らしよね?自分を大切にしてるよね?って。
大切にできないから、大切にするって何か分からないから、とりあえずインスタで仕入れた、大切にしてそうな丁寧な暮らしをやってみて、外面だけ整えて、大切にしてると思い込んでたんだと思う。
ここ数日、自分を大切にできてなかったことってなんだろうと考えていた。
出てくる答えは、丁寧な暮らしとかそんなことじゃなくて、自分は不幸でいいんだっていう”思考のクセ”が根源になっている、日々の些細なことからほとんどのことだった。
洗濯物を1週間溜め込んでしまうとか、お風呂に入ったもののその後の工程がめんどくさくなってお湯がぬるくなるまで入るとか、洗い物もシンクに溜め込んで、ご飯もコンビニや惣菜ばかり、アラームは爆音で何度も鳴らして最悪の目覚めにして、角度を変えると疲れてヘトヘトなのに効率を重視して1駅歩いて帰るとか、肩こりや自律神経の異常に気づいているのに放置する、傷つくと分かっていて彼との連絡を続けるとか、病院の先生に1週間後に来てねと言われても行かないとか、本当に大きなことから日常の些細なことまで出てくる出てくる。
上記は自分でそうしたいと思ってやったことじゃない。たぶんだけど、不幸が似合う自分だと自身で決めつけて、不幸でいることで、私はここを直せば幸せになれるポテンシャルがあるって思いたかったんだと思う。
幸せになって良いんじゃない?って思える今なら、そのポテンシャルがあるなら幸せになればいいじゃないって思っている。
ズボラが悪いというわけでもないし、繁忙期とかどうしても疲れた日はありなわけで、何が問題かというとデフォルトが自分の意志に反していることに気づけていなかった。できないことをできないまま放置して、自分の心をすり減らすことで解決していたんだって思った。
完璧にこなす必要もなくて、自分が思うベースの水準までもっていける体制を整えたいと思った。問題はツールとか仕組みなのかもしれないし、仕事とかの体制なのかもしれない。
今この瞬間もお香を焚いて、間接照明の中で、ゆったりな音楽をかけながらこれを書き綴っているわけだけど、これは自分を大切にしているとは別物で、自分に贅沢な時間をプレゼントしているのだって感じている。根本じゃないんだって思う。
私はまだまだ幸せじゃないけど、1つ1つ幸せになるように解決していくんだ。幸せになる決心をした11月3日の夜。
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