上手い事も失敗しない事も特に大切ではない。と納得して人生が楽しくなった

上手いことも失敗しない事も特に大切ではない。
困っていて、一生懸命で、どうにかしたい!と思っている。その時点でもうある意味最高で完璧。と思っている。
できない事を見つけては試していってどんどん失敗していくことは、とても楽しいことだ。

ただ数年前は失敗したくなかったし、なんなら特別な自分になりたかった。上手くできる、価値のある自分でなければだめだと思っていたし、もっと自身がなさそうで、できない自分に苦しんでいたな、と、あさぎさんのツイートを拝見して思い出した。

私の社会人人生はずっとやばいやつだった。特にミスなくルーティンをこなす単純作業で横一列のチームワークが必要な仕事では特にできなさがやばい。
馴染めないし失敗するし仕事できないし、ダブルワークをしたり、働いては失業期間を設けたり、バイトを転々としたり、バイト含めて30回は仕事を変えている。メンタルが不安定で負のオーラも出てるし散々だった。

ただ今振り返ると、あれだけやばかった役立たずの私でも、ちょこちょこ出会った様々な背景を持った大人に目をかけてもらっていたな、優しくしてもらったな、と思う。
あの時はとても立派な大人に見えたけど、今思うとみんなそれぞれ悩みもあった、私に似たところのある不器用さがある人だったのかもしれない。

失敗が怖い、失敗したら、馬鹿にされ、怒られ、怒鳴られ、そういったことを家族や学校や今までの環境で経験しつづけると失敗が怖くなるのだと思う。
今思うと、それは残念な仕組みだったり、余裕のない環境だったり、構造や状態から発生したただの不幸だった面もあると思う。
世界につい発生しうるただの不幸なので、自分の生き方をそれに合わせて矯正する必要は特にない。

失敗してもなんだか許される人っていて、あれは何でだろう(嫉妬!)と思っていたけど、あれは当人の雰囲気というか、当人が失敗にどういうイメージを持っているかで、相手から引き出す反応が変わる面があるのだろう。

いまだに私はしょうもないミスをするが、もちろん環境に恵まれている面もあるが、ミス自体は変わらなくても、そこからの自分の反応も変わっているんだと思う。(今は、しょうがないな…という反応を頂いています)

コミュニケーションが練習できる場をグループで始めたのは、私にとって転機になっている。
安心して失敗できる練習の場で、「どうにかしたい」と思い、失敗したりちょっとした迷惑をかけたりすると、意外と周りは受け入れてくれる。
「あっ自分の弱みを出していいんだな」と体感として経験できると、人と居る時のガードが一段下がる。

「不器用で緊張していて何を考えているかわからないやつ」から、
「不器用でちょっと緊張していて何を考えているかちょっとわかるやつ」になる。
人と何度か会える仕組みがあると、お互いがどんなやつかちょっとずつわかって、緊張もちょっとづつ抜けていく。
すると、自分をかわいがってくれる人が世界にとても増える。驚くほどだ。
「警戒心を解けばいいだけだったのか!」とその時になって拍子抜けする。

警戒心は意志の力では抜けない。感情は意志で変えることは出来ない。
よい場で体験をしてみるのが一番手っ取り早いように思う。

安心できる場に参加する事。その場で思いを話し合うこと。そういった中で徐々に緊張は抜けていく。
上手い必要も失敗しない必要もない。初めは緊張で何を考えているかわからないやつでもいい。
ただ、「どうにかしたい」という動機だけ持ってきてくれれば、その中身をみんなでシェアすることで、「自分がなんで苦しんでいたかわかる」「他の人も似たような悩みを持っている」「自分の悩みは自分だけの特別な苦しい悩みではなかったんだと知る」そういった経験を経て、人といて緊張しないようになっていくのだと思う。

一生懸命悩んでいること、それ自体がとても価値のあることで、その気持ちがあるからこそ、仲良くなれる人が必ずいる。
(傷がでっかいと、1対1の関係に挑むと距離感のバグが発生しがちで、関係がおかしなことになりがちなので、ということも踏まえて、まずは良い場に自分をつなぐことはとても大事。有効。)

自分の悩みがむしろ自分の役に立つような、自分の悩みがパワーに転換できるような、安心できる場所って意図的に設計できるのだと思っている。
自分で作りたい方もぜひ応援したいし、自分も引き続き作れるよう人生を使って取り組んでいきたい。

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