ふへらふへら #5【連載小説】

 黒髪が増え始める三年生の新学期。就活解禁は四年生の春からだけれども、実際は早期内定をもらうために水面下の戦いが始まっている。以前のインターンでは本気な子達に圧倒されて気落ちしていた私も、さすがに周囲の焦りが伝播しそろそろ先延ばしもできないかなと思い直してはいるのだけれども、自己分析の段階ですぐに挫折。とりあえず有名企業で、とりあえず何かクリエイティブなことができるところで……といった、とりあえず周りに合わせた行動をしていたところ、とある企業で「やる気ないなら帰ってくれない?」と罵倒され、つい「うっせーな」と悪態をついてしまった。デカルトいわく困難は分割せよとあるけれども、それって目標がしっかりと定まっている人だからこそ有効な手法で、そもそも一生を賭して何がしたいかなんて難題にすぐに答えを出せるなんてどういう思考回路しているのか全然理解できないし、どうせ目の前のこの人もやりたいことなんてないだろ、何かしたいのではなく何もしないのが怖いだけだろ、なんて心の中で独りごちり堪える。

 思い返せばこの時の私はとにかく何に対しても憤りを覚えていて、ある日たまたま目についたオーが平日昼間にも関わらず暇そうにしていたので、サンドバックにはちょうどいいかもなんて気軽に愚痴ってみたところ、「今が楽しければいいんじゃない?」とあっけらかんと返され、「ふざけんなよ、お前もう三十代後半だろ。そんなんでいいのかよ」と反論するも、「それは僕が決めることだし、僕は毎日楽しんでるよ」と悟り世代もびっくりの返しにぐうの音も出ず、さらに「最近ずっとしかめっ面してるから、そんなんじゃ運も逃げちゃうよ」なんてスピリチュアルな指摘までされ、部屋に戻って鏡を見ると確かに釣り眉になっていたので整えようとしたら眉毛が足りなくなって、前髪で隠したら想像以上に重たく陰気になってしまい、もーやだぁと枕に顔をうずめてバタバタしていたら、「さっきから一人で何してるの?」と声がして、振り返るとそこにユキちゃんがいた。

「レイちゃん、久しぶり」
 しばらく私は何も考えられずにユキちゃんの姿を追っていたと思う。
 ユキちゃんがゆっくりと間をとって私の言葉を待ってくれたおかげで徐々に落ち着きを取り戻し、そういえば「あれ、なんで私の部屋にいるの?」と尋ねると、「さっき帰ってきた」といつもの端的なペースの返し。ああいつもの日常が帰ってきたと、私の心は歓喜に沸いた。
「ちなみにいつからそこにいたの?」
「レイちゃんが鏡とにらめっこしてるときから」
 ふへら。全部見られていたついでに、聞いてよユキちゃんと慰めてもらおうかとも思ったけれども、そんなことをしても全く生産性がない気もしたので、「ところで、留学どうだったの?」と話題を変える。ニューヨークに語学留学。この時知ったのだけれども百万程度あればアルバイトしながら半年は留学できるようで、ニューヨークで半年も過ごせるなんて……私は昨秋から現在までの自由な時間をなんて無駄にしてしまったのだろうと悔いる。

 ユキちゃんはあまり自分の話をしたがらないのだけれども、質問を重ねて少しずつ紐解いていく。普段は語学学校で英語の勉強をし、週一で音楽学校にも行ってみた。そこでできた友達とライブハウス巡りをしてみたり、一回だけアポロシアターに行ってみたり、創作をしたり。どんな曲を作ったのと尋ねると、少しためらいながらもYoutube上にアップされている動画を見せてくれて、
「おお、カッコいい!」
 これまでユキちゃんの作る曲になかったテンポと電子音源、生声で英語の歌詞、しかもMaroon5のような甘い声、お洒落! しかも再生回数なんと5万回!
「すごいよ、ユキちゃん! プロになれるんじゃない?」
 ユキちゃんの表情が陰る。あれ、本当に良いと思って言ったんだけど……と私が固まっていると、「もう音楽は止めようと思って」とユキちゃんは切り出す。
「えー、なんでなんで? こんなに良いのに!」
「生活の一部にはできないと思ったの」
「生活の一部?」
「音楽のある生活をしている人を見たの」
 ユキちゃんはここで一呼吸ついて、おだやかな口調で続ける。
「別に有名な人じゃなくて、若者でもなくて、そもそも演者でもなくてその人は清掃員なんだけど、初老くらいで、ブルックリンのライブハウスで働いているの。もちろんオーナーでもなくて、毎日同じように床を履いて、ゴミを出して、夜に若者が演奏して、時々自分もギターでセッションして、お酒を飲んで、その繰り返しなんだけれども、でも……すごく幸せそうで、そんな人が山ほどいるの」

 少し間を空けて、「私は、残念だけど、そうはなれないなって思って……」と言い、それ以上言葉は続かなかった。その後も私は何か話しかけた気がするけれども、ユキちゃんはそれ以上何も話そうとしなかった。




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