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【短編小説5000字】秋の花火と夜の羽化
夕暮れ時、海と山に挟まれた小さな港町の、手のひらに掬った水のようにひとところに町役場や駅舎、保育園などがこぢんまりと集まっているあたりの町民グラウンドわきに車を停めて、港のほうへ歩き出す。
妻と五歳になる子が手をつないで先を行き、私があとに続く。
足元のアスファルトには日なかの熱気がわずかに残り、そこかしこで秋の虫が鳴いている。
重ったるい海風が心地よく吹き抜ける。
うっそうとした城山の横を過ぎ、倉庫の並びを抜けて漁港に出るころには日はすでに背の山に隠れ、家々も道も海も山影の中にあって、ただ空だけが藍の色に暮れなずんでいる。
その藍の底を縁どるように、歩くさき遠く港の端でいくつもの大ぶりの旗が横一列にはためいているのが見えて、あれは大漁旗だよと指さす妻にどれぇ?と子が聞き返し、そのあれがなかなか定まらない。ほらあれ、あそこでぱたぱたしているでしょ。
大漁旗をはためかし、幾艘の停留漁船を越えて前髪をすく風には不思議と磯臭さはない。
港の中へ歩を進めるうちに虫の音はふっと遠ざかり、慎ましやかな水音が取って代わる。
足元の岸壁ぎりぎりのところまで満ち満ちた海面は波ともいえぬ穏やかさでちりぢりに揺れ、その舌先がコンクリートのへりをちゃぷちゃぷと舐めている。
「あ、みてぇ」という子の視線のさきで、黄昏の道端を小さな影がすばしっこく駆けてぴたりと止まり、目を凝らせば小蟹が一匹、側溝の中にするりと消える。
「かにだね」と教えるそばから足元を小影がもうひとつすばやくよぎり、「あ、ほら、こっちにもかに」と指さす間にも、小蟹の輪郭は夕闇に溶けはじめて、溶けきる間際にものかげに隠れる。
小蟹の足音は小さくて、慎ましい波音にもかき消されて私の耳に届かない。
「こっちから行こう」
ここらは私の庭と豪語する妻に導かれるままスロープをのぼりおりして港を外れ、民家のあいだを抜けその先の路地をジグザグに縫って、あれが公民館と妻のいう四角い建物の裏手に出る。
濃紺に沈む空の一角で、荒波に龍の錦絵を巻いた横長の大灯籠がだいだいに灯り、その下にも祭りのあかりがざわざわと溜まっている。そのあかあかとしたあたりから、穏やかな賑わいが聞こえてくる。
公民館とその横に鎮座する関船のあいだの人垣を抜けて、前の小道で義父母と落ちあう。
義父はこの祭りに関するいくつかの役職を兼務しているらしく、いつにもなく疲れた様子で腰高のコンクリート塀にもたれていて、その足元にむじなのようにまとわりつく子を鷹揚になでる。
公民館前の小道はそのまますぐ横の港の端のほうまで延びていて、その上にはさっき遠望した大漁旗が列をなしてバタバタとさんざめいている。
「あれをなぁ吊るすんがごっつ大変だったんじゃ」と義父が嘆息し、
「あの絡まってるん、広げたくてたまらん」と妻が言う。
おお、やってくれぇ、ほな棒かなにかをなどと軽口を叩きあう間にも祭り装束の人々がせわしなく行き交い、やがてタン、タララッタ、タン、タタンと禿頭の老人が叩く太鼓にあわせて、ねじり鉢巻きにはっぴ姿の子どもたちがブルーシートのうえで小さな輪になって踊り始める。
タン、タララッタ、タン、タタン
〽︎梅干しが、酒も呑まずに赤い顔、年もとらんのにしわ寄せて
老熟のしゃがれ声で謡が入り、それに合わせて踏み出す幼いつま先がブルーシートを二度ずつ叩き、タン、タララッタ、タン、タタン、両手のうちわが右に左につたない円を描く。
タン、タララッタ、タン、タタン
〽︎元をただせば梅の花、ウグイス鳴かせて
エライヤッチャ、エライヤッチャ
妻の傍らで子が見よう見まねで踊りはじめて、義父と義母それぞれにねだったうちわ二枚を振り振り、たどたどしくステップを踏んでいる。
〽︎マダアル、マダアル、マダゴザル
暗い夜空に荒波に龍の大灯籠が煌々とともり、その下では関船の舳先に結わえ付けられた若竹のこんもりと茂った枝葉が、照明のあかりを受けてそれ自体ひとつの光源であるかのように輝いている。
それらの明かりの中で、うちわがひるがえり、小さな白足袋が地面を蹴る。
やがて踊り手は幼い子どもらから中学生くらいの男子たちに代わる。
もろ肌脱ぎにしたはっぴの下は水色地にあざやかな花柄の肌着。その背にピンク色の造花三輪を背負い、そのひとつひとつになぜかキューピーの人形をぶら下げながらうちわを振るう。
タンタララッタ、タンタタン、タンタララッタ、タンタタン
祭囃子はひときわ勢いを増し、うちわは鋭利に宙をえぐる。
タンタララッタ、タンタタン、タンタララッタ、タンタタン
踏み出したつま先が二度ずつブルーシートの地面を穿ち、背中のキューピーが躍動する。
同じ年頃の女子たちが、青の笹竹柄の浴衣にたすきを掛け、幅広の鉢巻を額あてのように締めて踊りの輪に加わる。
鉢巻とたすきはどちらも朱に水色を重ねてあって、その紐の端がうなじの下でひとつに連なり、あでやかなしだり尾となって浴衣の背に長々と垂れ、踊りに合わせて朱に水色に揺れている。
一度は輪を退いた子どもたち、それから見物人の一部が踊りの輪に加わってにわかに輪はくずれ、一塊となって踊りつづける。
タンタララッタタンタタン、タンタララッタタンタタン
太鼓はせわしなくビートを刻み、エライヤッチャ、エライヤッチャ、合いの手が踊りの中から湧き上がる。
タンタララッタタンタタン、タンタララッタタンタタン
老練のうちわさばきとたどたどしい足運びが入り混じる。
「おにさんどこぉ」と踊り飽きた子が両手のうちわを持て余しながら聞き、
タンタララッタタンタタン
「鬼さんは後よ」と妻がこたえる。
タンタララッタタンタタン
花柄の背でキューピーが威勢よく跳ね上がる。
浴衣の背で朱と水色のしだり尾がはにかむように揺れる。
周りの手拍子にも力が入り、エライヤッチャ、エライヤッチャ、合いの手が割れんばかりに夜空に響く。
いつのまにか辺りはすっかり暗くなり、明かりはこの公民館前の広場に小さく硬く押し込められている。
タンタララッタタンタタン、タンタララッタタンタタン――
エライヤッチャ、エライヤッチャ――
キューピーが跳ね、赤青のしだり尾が舞い、うちわが勇ましくひるがえり、白足袋がブルーシートを穿ち、
タンタララッタタンタタン、タンタララッタタンタタン、エライヤッチャッエライヤッチャアッ――
――パシュッ。
喧騒の合間を縫って、小さな射出音が耳に届く。
もしかしてと見上げる夜空に大輪の花が咲き、それから雷鼓のごとき破裂音が音のスコールとなって人々を木々を地面を打ちつける。
一発、また一発と花火があがる中、気がつけば踊りは終わっていて、見物人も祭り衣装の子らも三々五々、真横の港へ移動しはじめている。
手の届きそうな夜空で、大輪の菊が花開き、あでやかな牡丹が落花する。しだれ柳が引き波のような音をたてて長い尾を引いて垂れ落ちる。
花火は鼻先の防波堤外の小さな船着き場で、黒塗りの花器に生花を一輪ずつ生けるように打ち上げられて、真上の空で花開く。
ほんのわずかにずれて、音があまたのつぶてとなって、頬を叩き、腹を打ち抜く。
「子どもの頃からこの花火の音がお腹に響く感じが好きだったの」と妻が言って、
「おお、楽しみにしとけよぉ、今年の花火はなにしろ――」と義父が言いかけて、花火があがり、音が打ちつけ、言葉をかき消す。
花火の妨害をものともせずに、妻は在りし日の秋祭りの思い出を語り、義父は二年ぶりの秋祭りと花火の再開にむけての悪戦苦闘について語りつづける。
真上をずっと見てると首が痛くなるから、ばあばのお膝にのってお腹を枕にして見ていたというようなことを妻が語り、子はそれを真似て、防波堤に腰かけた義母によじのぼり、その膝のうえに抱えられるようにして半ば仰向けになって花火を見上げる。
夜空がひかり、その顔をほのかな朱に染めて、音が打ちつける。
義父の話は花火の規模が例年の倍になった経緯からその資金調達の苦労へと及び、花火があがり音が打ちつけ、仔細を呑みこむ。
「だからどうしてもこの花火を見せてあげたかったんよ」と妻が言い、
「花火の再開にこぎつけてよかったわ」と義父が言う。
菊の花が咲き、夜空に溶けていた大漁旗がにわかに浮かび上がり、音が打ちつけてまた影に沈む。
しだれ柳の枝葉が満天に広がり、引き波の音で頭上近くまで垂れ落ちてくる。火の粉がひとつずっと下まで消え残り、風に流されながら海面の黒にその明々とした姿をちぢれに映し、自らの鏡像に触れるや否やにたち消える。
やがて花火はクライマックスをむかえ、つづけざまに、あるいは同時にいくつもの花火が夜空に咲き乱れる。
夜空に光の花々がちりばめられ、空と海とのあいだを音が満たして、ささやかな歓声があがる。
光の噴水があがり、色とりどりの光が蛍のような曲線で飛び交う。
一輪で天空を埋め尽くさんばかりの大菊。
高さを競うように咲き連なるいくつもの小牡丹。
しだれ柳が、光の時雨となって降り注ぐ。
次々に咲き誇る光の花は網膜に焼きつく残光と重なり絢爛な花々のブーケとなって夜空に浮かび、淡い煙のカスミソウを添えられて、やがて漆黒と静寂の包み紙にくるまれる。
夜空にたちこめていた硝煙が海風に運び去られるころに、打ち上げ場のあたりで爆竹の音とともに「オワリ」の文字が赤青黄色に点灯して、まばらな拍手が起こり、人々と波のざわめきだけがあとに残る。
散り散りに家路に着く者があり、公民館前の小さなあかりへと戻る者があり、港の暗がりの中に残る人影がある。
公民館前では全身赤の赤鬼と緑の青鬼とが子どもたちに取り囲まれていて、「おにさん、どこぉ」と言っていた子も妻に手を引かれながら恐る恐る近づいていって一緒に写真を撮ってもらったりなどしているあいだにも、祭り装束の子どもたちは白毛、黒毛を冠した長物や鷹、火縄銃を模したらしい小物などを持ってせわしなく行き交っていて、やがて町内へとつづく路地の暗がりから幼い掛け声が聞こえはじめる。
やー、やっさぁれー
やー、やっさぁれー
やー、ふりこぉめー
やー、ふりこぉめー
街灯の古びたあかりが点々とともる路地の暗がりではっぴ姿の子どもたちが掛け声に合わせてそれぞれの長物を横に振り下ろしては振り上げて、そのたびに尖端に冠された白毛が闇を撫で、黒毛が闇を混ぜる。
やー、ねりこぉめー
やー、ねりこぉめー
やー、まっかーせー
やー、まっかーせー
一列に並ぶ子どもたちの先頭には笹竹柄の浴衣姿の女の子がふたり凛と横に居並び、薙刀で地面すれすれを重々しく薙いでは夜陰をゆるりと切り開いて、その道の先ではもろ肌脱ぎのはっぴにあでやかな花柄肌着の男の子たちが高低入り混じる掛け声で跳ねるように舞っては槍のような長物を投げ渡しあっている。
子どもたちの声は幼くも厳かに響き、その白足袋と素肌と浴衣の白地と、長物の白毛とが路地の暗がりの黒に沈むように浮かんでいる。
やー、こっこらでしょ
やー、がってんしょ
掛け声が一回りしたところで、そろそろ帰らないとと妻が言い、子はまるでそれが今生の別れでもあるかのように、ばいばーい、ばいばーいと喉が張り裂けんばかりの大声で義父母との別れを惜しむ。
ひと家族の足音が港の波音を抜け、路地の虫の音を過ぎる。
あおおにさんいなかったね、と子が言い、
いたでしょ、ほら、あの緑の鬼さんが青鬼よ、と妻が言う。
なんであおじゃないの?
昔は緑色のことも青って言ってたの。
まだむかし?
昔の言葉が残っているのよ。
むかしってのこる?
残る。
でもみどりだよ。
それはそうだけどと苦笑する妻は小さく息を吐いてから、あの花火を見せてあげたかったんだと言って、
ぁー、 ぃこぉめー
ぁー、 ぃこぉめー
子どもたちの掛け声が海風に乗って、夜の底を幽く渡ってくる。
妻が運転席に乗りこみ、夫は子を後部座席のチャイルドシートに座らせてから助手席に乗る。
青色の車体は暗闇に溶けて、煌々とともる前後のライトだけがアスファルトを踏みしめる音とともに闇夜に走り出す。
車のライトは光の点となって、海の闇と山の闇のあいだのささやかな町明かりを離れ、やがて他の点に連なって光の線となり、もっと大きな光の塊の中に飲みこまれ、また離れ、また飲みこまれる。
浮かびあがるように、沈んでいく。
あるいは沈むように、浮かびあがっていく。
夜空はいつのまにか薄雲に覆われているが、その上にはまぶたの裏に消え残る花火のように、星々の光が煌々といつまでも瞬いている。