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私の覗いたトルコ。

 今年の1月15日から27日までトルコに行ってきた。ソープじゃないぜ。トルコ共和国だ。

 おれが旅行というものに、自分で出たいなあ、行きたいなあと憧れたのは妹尾河童さんの「河童の覗いたインド」を読んだのがきっかけだったと思う。それは大学の2回生の頃で、その頃の僕は時間を無駄にして旅にでることなく、退屈をありのまま愛していたのだが、今年、ついに旅に出た。

 行き先がなんでトルコ共和国なのかというと、理由なく中東に惹かれていたからだ。私は人間が旅に出るとき、ヨーロッパ寄りの旅、アメリカ寄りの旅、はたまた中南米、アフリカ、アジア、中東、いろんな選択肢の中から選んで旅に出るものだと思っている。だいたい行きたいところがあって旅に出る。旅に出る動機は様々だろうが、私は理由もなく、どこかへ行きたかった。ものすごく疲れていたせいだろう。逃げ出したかった。その逃げ場として選択肢を思い浮かべ、選ぶとき、私は中東に惹かれていた。そこには遊牧民へのあこがれや、得体の知れない私の興味を惹きつける中東の文化が、あの一種怪しげな(オリエンタリズム的差別かもしれないが)イメージとともに浮かび上がっていたからだと思う。

 旅に出る数ヶ月前、私はムスリムになった。ムスリムになったのは今にして思えば、中東への謎のあこがれが講じて勢いでなってしまったのだが、旅から帰ってきた今にして思えばよかったと思っている。
 
 トルコ共和国、イスタンブール。中東、アジアとヨーロッパの顔をもつ魅力的な街。ケバケバしく、華やかで、それでいてトルコ人や観光客がエネルギッシュに日々を過ごしている。東南アジアともまた違ったエネルギーのある、味わい深い街だ。

 この街で出会った興味深い出来事はキリがないが少し開陳したい。

 1つ目、バーガーキングでワッパーのセットを注目した。ドリンクは聞かれなくて「なにが出てくるんだ?」と思っていたらコーラが出てきた。

 2つ目、レストランでトイレを借りたらトイレットペーパーがなくて、ウェイターに聞いたらお手拭きのゴワゴワした紙を束でくれた。

 3つ目、うっかりホテルの鍵を持ったままチェックアウトしたのに全然連絡がこず、帰国してから気づいた。

 4つ目、長距離バスの発着所であるはずのバスを待っていたのに明日だといわれた。意地でバス停で野宿して、次の日来たバスに乗って、休憩所で行き先を確認したらそこには行かないといわれてブルサで途中下車して3日観光して楽しんだ。

 これらの出来事について、トルコ人たちから聞いたあるワードと、そこから私が気づいてたてた仮説がある。

ワードは「インシャァッラー」意味は「アッラーのみがお知りになる(キリスト教圏における神のみぞ知る)」

 ここからたてた仮説は「社会システムやインフラ、様々な店のサービス、はては日常生活全般に至るまで、理由はもちろん様々にあるだろうが、不条理に起こってしまうアクシデントはひとりの人間には大概どうしようもないものだ。そういうどうしようもないことは諦めて、アッラーにお任せする(預ける)のがよいのだ、アッラーのみお知りになる、という一種の大いなる諦めが中東社会には根付いているのではないか?」ということだ。

 本当に勝手にコーラが出てくるし、トイレットペーパーがトイレにあったらそれは「マーシャアッラー(神の恩寵に恵まれた)」だし、ホテルの従業員にしてみれば鍵が返ってこなかったのは自分の責任だなんて微塵も思ってないだろうし、鍵は現実問題返ってこなかったのだから、諦めて新しい鍵に取り替えたほうがまだマシだし、バスは来るときには来るし、来て、自分の思ったところに行けたなら、それはやっぱりマーシャアッラーなのだ。

 日常生活全般がこれくらい全然うまく行かない。いや彼らはうまく行くとか行かないとか多分全然気にしてない。これは確証を持っていえる。だってそんなこと気にしてたら家から一歩もでられないし、なにもできない。
 
 だったら、「まあうまく行かないこともあるけれども、それはアッラーがおらのために、こうした方が良いと思し召しになっただよ。そういうこともありなさるだよ、インシャァッラー」と思って諦めて、うまく行かないかもしれないけどやってみるか、と思ってやってみたほうがなんぼかマシ。そういう行動原理で動いているのだろう。マジで。そうとしか思えない。

 この「アッラー(人智を越えた偉大なる神、巨大なサムシング)に諦めたいことを「預ける」、預けてやってみる」そういう大いなる諦めとでもいえばいいのか、そういうものが人々の動きのなかに色濃く感じ取れる。

 勿論おれが直接聞いたわけでもないし、もしかしたらすごい見当違いのことを思っているかもしれないが、もうそうとしか思えないくらい身を以て「分からされた」。

 そして旅から帰ってくる。自分の国へ、おれが所属するウンマ(イスラム的共同体ではなく、ただコミュニティとして)へ、日本における日常がおれをまっている。

 バーガーキングでセットを頼むとドリンクを聞かれる。おれはファンタと答える。トイレに紙がなかったら店員さんにいう。すぐにスペアのトイレットペーパーが出てくる。店に何か忘れると電話なりメッセージなりが来る。すぐに取りにいける。京都市バスは数分ぐらいは遅れるかもしれないが、きちんとやってくるし、決まった路線をきちんと運行している。これがじゃぱにーずりあるらいふだ。

 でも、別にファンタである必要はないし、コーラが出てきて怒るか?と言われたらまあいっか、とすませるだろうし、紙が無かったら多分ないなりで諦めてなんとかするだろう。たぶん腹は立つだろうけど。店に忘れた何かが出てこなかったら、それはめちゃめちゃ困るけど、まあ忘れた自分が悪い。バスで運転手が「ちょっと今日は清水寺に行きたい気分なんで行きますね」つったら通勤途中だったらキレるかもしれないがまあそういうこともあるかもしれない(いやないだろ)。

 トルコに行く前と行った後で決定的に変わったことは、まあしょうがないよな、と思ってあきらめる。あきらめた上でやってみる。一種の覚悟が身についたことだ。

 これは非常に良かったと思っている。このへんで終わるね。

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