
一緒に幸せな気持ちでいられさえすれば (宗安小歌集15)
「我が心、我に従ふものならば かほど苦しき恋は無用と、意見せうずもの」(宗安小歌集)
女性から見て理想的な結婚相手として、以前言われた3K=「三高」という言葉、高収入、高学歴、高身長というトレンドから、「3C」という言葉に変わってきているとされる。
Comfortable(快適な)- 十分な収入があり、良い生活をおくれること Communicative(理解しあえる、通じ合える)- 価値観が同じであること Cooperative(協力的)- 家事や育児に協力的であること
ということで、かつての3Kに比べれば至極あたりまえの理想像に変わってきている。
特にCommunicativeは当然のことであり、あえて条件としてつけること自体がおかしいくらいで、
それだけ逆に、この基本をないがしろにした結果、不幸な結婚になってしまった例がたくさんあるのかもしれない。
たしかに結婚と恋愛の違いは、やはり結婚には契約の要素があり、自分の人生を大きく左右させるもので、相手の収入、仕事というものを無視できない。
でもそれはなによりも理解しあえるという大前提があること。
そして先に好きになってしまったら、そんな条件などどうでも良くなってしまうもの。
昨今の晩婚化の傾向を見ていると、結婚相手の条件を先に意識するがあまり、結婚における恋愛の要素を忘れ、一緒にいることの喜び、幸福感という感性の部分は後から付いてくるものとしてとらえられているような気がしてならない。
本来、好きになったら、相手の環境、収入など社会における価値観など関係なく、そんないろんな社会的な障害をどうやって乗り越えるかということが本来、愛を育むもの。
そんな伴侶がそばにいてくれたなら、その時点でその結婚は人生の幸福を半分手に入れたようなものなのだと想いたいもの。
不倫の恋などはまさにその際たるものだろう。
不倫の恋ならば、せめて逢っている時だけでもこの世に二人だけという幸福感に満たされるだけでそれでよく、それ以外の条件などまったく必要がない。
「我が心、我に従ふものならば かほど苦しき恋は無用と、意見せうずもの」(宗安小歌集)
自分の心が冷静で、客観的な判断が出来るならば、これほど苦しい恋など捨ててしまえばよいと意見をいうに違いない。
けれどわかっているけど、止められない。
恋とは元来、損得、条件の良し悪しなどを超越したもののはず。そしてそんな苦しい恋を克服して結ばれた恋には、不幸など訪れない。
一緒になれてよかったと感じる瞬間は、相手を感じるとき。