窓ぎわのトットちゃん
窓ぎわのトットちゃんを観に行きました!
原作は読破済みなので内容については結構割愛してます。
今作は「戦争映画」ではなくて、「トットちゃんという女の子が自分を尊重してくれる学校で友達や先生と出会い、成長していく物語」という作品だと思う。時代背景的にどうしても「第二次世界大戦の匂い」は避けて通れない、という形で出てくる印象でした。
★「窓ぎわのトットちゃん」の感想
§「アニメーション映画」だからできたこと
今作品は「アニメーション映画」の特色を最大限に発揮していた映画だと思う。特に「トットちゃん目線から見る世界」の色付けは多分実写だとここまで鮮やかにはできなかったんじゃないかなと思う。
分かりやすいのは「トットちゃんの妄想シーン」だよね。作風がガラッと変わって賑やかで鮮やかな世界がぐわ~~っと広がる演出が圧巻。
トモエ学園や生家が一貫してパステル調で明るく、淡く、優しく包み込んでくれているような色調なのもそう。「トットちゃんにとっては自分をまるごと包み込んでくれる、安心できる、まるで天国みたいな場所なんだな」とわかるのがいい。
§トモエ学園の小林校長
今見ても「すごいな」となるのはやっぱり小林宗作校長。
大正自由教育運動(画一的で型にはめたような教育のスタイルから、子どもの関心や感動を中心に、自由で生き生きとした教育体験の創造を目指そうとする運動)の意思を継ぎ、自由で芸術的な音楽教育を受けさせることを理想と掲げ、リトミックを教育基盤に置いた「トモエ学園」を創設。
約100年前の運動なのに令和の日本で「先進的な思想」と言われているのがなんというか皮肉だよね。
小林先生の「君はほんとうはいい子なんだよ」は何度も出てくる言葉で、この言葉がどれだけ黒柳徹子氏を救っていたかがよくわかる。
いつも子供たちの前では穏やかだけど、うっかり失言した担任の先生を呼び出して「普段私たちが子供たちに劣等感を抱かせないようにどれだけ気を配っているのか、わからないのですか!!」と厳しく叱咤している場面を、トットちゃんが目撃してしまうシーンがあるんですけど、小林先生も完全無欠じゃない人間なんだな…とわかるところで個人的に好きなシーン。
自分らしい生き方を追求すること
肯定的な言葉によって自己肯定感を育むこと
好奇心を持って学び続けられる環境つくり
個人の強みを発掘し伸ばす教育方針
個人の違いを理解し、受け入れ、支援する体制
この理念が一貫しているのがトモエ学園なのですが、「子供たちに劣等感を抱かせないように心を配っている」という発言はやはり「世間から外れていることで劣等感を抱きやすい、所謂生きづらい特性をトモエ学園に来た子供たちは持っている」という認識がないと出てこないと思うので、「子供たちの可能性を伸ばす、自分らしく生きていく」というポジティブ思考とはまた別の、ちょっとざらっとした質感がにじみ出ているのが「人間だな」と思った。ヘタすれば「無意識に特性持ちを下に見てるんですね」と言われかねない発言だとも思う。
個人的にはそれを踏まえてなお「個人の特性を尊重し、違いを受け入れ、支援して伸ばす」という理念を一貫していた姿勢が好きなんですけど。
そもそも「空気が読めない、好奇心のまま行動してしまう」のは「特性」であって、その特性が社会で自分以外の人間と暮らすなかで周りと「衝突」してしまい「生きづらい」または「周りに迷惑をかけてしまう」という不具合がおこってはじめて「障害」という認識となる、ということなので、逆に「特性が否定されない、尊重される」世界なら「発達障害」としてつまはじきにも合うことはないもんなぁ、と思ったりもした。ここら辺は難しい話だよね。
ラストの空襲で炎に包まれる校舎を背景に「今度はどんな学校を作ろうか」と「観客に向けて」語りかける小林校長のラスボス感が半端なくてよかった。最後小林校長の瞳に宿る炎だけがしっかりスクリーンに残るところも「小林先生の信念は戦火であろうが灰にすることはできない、この映画を見ている観客にも焼き付けて残してやる」という制作陣の「意志の強さ」を感じてゾクゾクした。
★「戦争」という目線で見るトットちゃん
窓ぎわのトットちゃんを見て「この世界の片隅に」を思い出した人も多いんじゃないかと思う。あくまでも「日常生活を描いた作品で時代的に背景に戦争の足音が聞こえてくる」という部分が似ている。
戦時をテーマにしたアニメ作品だと個人的には初代林家三平の妻である海老名香葉子さんの実話である「うしろの正面だあれ」と言わずと知れた「はだしのゲン」が好き。(火垂るの墓も好きだけどアレは色々と特殊なので別枠)
リアルタイムであの時代を体験した方たちの証言をもとに構成された作品、ということで比較をしながら見てみると面白い。
§「トットちゃん」の持つ特徴
「トットちゃん」は4つの作品の中でも明らかにハイソサイティな文化で暮らしている、というのが分かりやすかった。現代の感覚から見ても「お金持ちのお嬢様」だった。正直だからこそトットちゃんはトットちゃんのままで肯定されて生きていけたんじゃないかとも思う。尋常小学校に馴染めないから私立の学校に転校します、という手段が取れたので。これは現代にも言えると思うけど。
「うしろの正面だあれ」の香葉子の家も釣り竿の名匠で裕福(誕生日にすき焼きが出てきたり、子どもの勉強のために家に顕微鏡があったり、これで何かおやつでも買っておいでとポンと5銭渡されたり(当時1銭が約200円換算なので8、9歳の子に1000円相当のお駄賃を渡してることになる)している)だけど、香葉子と比べても桁の違うお嬢様だった。
「綺麗に着飾り街でお買い物をした後に資生堂パーラーでアイス食べたい」という生活ができるのって現代の感覚から見てもかなりの金持ちだよ。
リンさんに「ウエハーの乗ったアイスクリーム描いて!」とせがまれたすずさんが「うえはぁ?あいすくりいむ?なんね?それは」と反応してたけど、同じ時代に生きていてこんなに顕著に差が出るのが凄いよね…
想像力が豊かで周りの空気が読めない点で見たらすずさんと似てると思う(性格は真逆だけど)。すずさんは家の手伝いをしながら自分で文房具やお菓子を買っていて、お金がないからと小さくなった鉛筆を無理矢理にでも使っていた。その時点でトットちゃんとはかなり境遇が違う。あと性格が大人しいから「授業の邪魔はしない=目立たないのでちょっと変わった子」くらいだったんだと思う。
4つの作品の中でトットちゃんだけが持っている特徴は「戦争が激化する前の世界が色鮮やか」な点。
トットちゃんもお母さんもカラフルで華麗に着飾っていて、家の内装も華やかで、前述したとおりトットちゃん目線で描かれているからだと思うけど世界も基本パステルカラーな色調で彩られている。
それが戦争が本格化して「華美な服装は控えるように」と注意されてしまい、婦人たちが列をなして「質素倹約」を呼びかける行進をして、町には「贅沢は敵だ!」の張り紙が目立つようになる。
最初こそ「そんなの気にせず好きな格好をしたら良い」とお父さんは言っていたけど、お母さんもトットちゃんも格好も徐々に「順応」して「地味」になっていく。
他3つの作品では「服装の変化」は正直ないに等しい。香葉子は戦争前から彩度が低く質素な服装だったし(あるとしたら防災頭巾の裏地を花柄にして「せめて見えない所でおしゃれに」という母が気持ちを託すシーン)、すずさんは幼少期からつぎはぎのボロの服を着ていた。逆に嫁いでからの方が質素だけど綺麗な格好をしていた。ゲンは言わずもがな。
物がどんどんなくなっていって、おもちゃが取られたり、食料が少なくなってひもじくなったりという段々と「必要最低限のものすら容赦なく削られていく」描写は全作品共通としてあるけど「服装」という「豪奢品」に言及した作品はトットちゃんが初めてな気がする。
お嬢様で煌びやかな世界で生きていた人だからこそ描けるコントラストだと思った。
飼い犬のリッキーが説明もなく途中でいなくなったのは、当時ペットも徴収対象で「犬も毛皮のために献納・供出」という名のもとで撲殺・毒殺された「犬の献納運動」だと思うんだけど、小説でもお母さんが「リッキーはどこか行っちゃった」とトットちゃんにぼかして伝えて終わってるので、あくまでも子供目線での範囲で描いてるんだと解釈した。(あとこのご時世なので何言われるのかもわからない、という視点もないとも言えない)
§あの時代で「選択ができる」ということ
あとお父さんの「…僕のバイオリンで軍歌は弾きたくない」というのが割とこの時代では「特殊」だと思った。
戦争が激しくなり、音楽家の仕事が途絶え、軍歌を弾いてくれないかという仕事の依頼が来た時、家族が食べていくために一度は検討するものの、やはり自分の信念は曲げられないと断る展開なんですけど。
他の作品がどうかというと
すずさんは食べ物と引き換えに家族の唯一の遺品でもある花嫁衣装を売りに出していたし
ゲンは「お母ちゃんと妹が飢え死にしてしまう!」と「何でもいいので僕に仕事を下さい!!」というプレートを下げて、乞食だとなじられようが仕事を求めていた。
同じくはだしのゲンの作品内では家族に食わせていくために「パンパン」の道を選ばざるを得なかった女の子も出てくる。リンさんもまさにこれ。
二つともこれは戦争が終わった後のエピソードだけど、「このままでは家族が飢えてしまう」という展開は同じなので比例として出してみた。
明らかに違うのがすずさんもゲンも「生き抜くためには手段は選べない」という点。
また戦前から田舎では口減しのために子供が売りに出されてた時代でもある。
この時代の栄養失調からの飢え死にはかなり距離の近い死因だったと思う。現に自分の祖父母も戦時下を生きた人たちだけど、食べるものがなくて下の兄弟が2、3人ほど実際に餓死しているし、祖父母自身も生きるために学生の身ながら仕事もしていた。
本当の意味で「自分で選ぶ」という道すらない時代において、「軍歌は弾きたくないから仕事自体を辞退する」という「選択ができる」時点で、黒柳家の桁違いの裕福さをまざまざと感じた。ヴァイオリニストとしての誇りを捨てる気はない、ということだと思うけど、その選択をしてもなお生き残れる経済力があるところも含めて。
経済力がないのにあの時代で理想を掲げて、仕事を断っていたらどうなるかというと、それこそ火垂るの墓の清太ルートまっしぐらなわけです。
「自分の意思で選択を取ることができる自由」もまた富の象徴だと思った。
まぁその選べた立場のお父さんでさえ徴兵に取られ何年も帰ってこず、可愛くて豊かだった家も建物疎開で取り壊され、青森の4畳の小さなりんごの見張り小屋で暮らすことになるので、どれだけ豊かであっても根こそぎぶん取られるというのが戦争の惨さだと思う。
個人的には映画の中では「大丈夫、なんとでもなりますよ」と仕事を断る決意をした父に対して母が励ますシーンで、「箱入りお嬢様で仕事もしたことがないからそんな悠長なことが言えるんだろ」と映画だけ見れば一思われそうな母が、実際は縁もゆかりもない人のところに行っては頼み込んで住まわせてもらったり、定食屋を始めて稼ぎ出すという本当に「なんとかする」強さを持っていた、というのが好き。
映画「窓ぎわのトットちゃん」は単純にアニメーション映画としてもクオリティが高く、登場人物の心情や動きも繊細で、ストレートに世界観に没頭させてくれる作品でした。