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【書評】リジー・コリンガム(著)、松本裕(訳)『大英帝国は大食らい』(河出書房新社、2019)

書評者:田中 無知太郎 (公務員の落穂拾い)

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 イギリス料理は不味い、というイメージが人口に膾炙している。評者の1週間のイギリス滞在経験を思い返しても、フィッシュ&チップスを除けばお世辞にも美味いとは言えない料理カテゴリーだ。だが、もちろん本書は不味い料理を如何にイギリス人が食いまくったかという陳腐な本ではない。本書に詰まっているのは一握りの美食と、“帝国”の大食(それはもはやGluttonyと言ってもいいかもしれない)、その歴史と帰結を探る試みである。

 各章は常に食事のワンシーンから始まる。「魚の日」で塩ダラばかり食べさせられることにゲンナリする船乗り、アイルランド人の脇汗が染み込んだスープを固辞するイングランド人、新大陸に渡った家族の虚栄の贅沢、カリブの砂糖長者が主催する何十種類もの肉が出てくる宴、帝国によって強制的に握手させられたインドとアフリカの合作名物イグアナカレーを食する鉱山労働者……これらのワンシーンは、「食」を囲む人間のささやかな喜怒哀楽を提示しているのだろう。だが、こうした「食」を皿の底まで眺めても見つからない「生産過程」や「イデオロギー」を著者は丁寧に抉り出していく。

 本書が大英帝国の繁栄の礎として措定するのは、「貧乏人ジョン」と呼ばれたニューファンドランド産の塩ダラである。当初、航海中の船員によって報告されたニューファンドランドの海に「うようよ」いるとされた魚は、最終目的地であるテューダー朝の国王の食指を動かさなかった。彼の目的地はその沿岸を辿った先のスパイスと宝石の宝庫である「シパンゴ(日本)」だったからだ。もちろんその安易気ままな想像は裏切られたわけだが、大して喜ばれもしない魚群が失望を埋め合わせた。塩ダラは産業革命の先駆け的な工業的体制でもって加工され、航海に耐えうる長期保存が可能になってまもなくヨーロッパの食品市場を席巻した。「貧乏人」は瞬く間に没落し始めていたスペインの銀貨に変身し、それがイギリスの外貨としてレヴァント貿易やロシア、東インドでの交易に使われた。ここから始まる大英帝国の歴史は、既に多くの人の知るところなので繰り返さない。

 もちろん本書はイギリスの食料貿易をテーマとした、「大英帝国」の幸運なサクセスストーリーの再生産では決してない。塩ダラの加工のために沿岸部に入植したイングランド人に追いやられ、内陸部へと移動した先住民ベオサック族は、動物のいない内陸部で食料不足に陥り、19世紀前半に絶滅したという、その後の歴史を暗示するかのような不吉な言及を著者は忘れない。こうした「淘汰圧」こそが大英帝国の「悪食」を支え続けた。アイルランドはクロムウェルによる徹底的なジェノサイドの後、農地改革の美名のもとにイングランド人の入植が行われ、伝統文化は端に追いやられた。西アフリカは白人の生活水準の向上に奉仕する奴隷の一大産地となり、残された部族は外来の食物(トウモロコシやキャッサバ)で生き延びた。インドでは本土のためにしばし飢饉に見舞われ、ガンジス川を死で満たした。 

 その一方で、大皿に盛り付けられたかのような帝国の貪欲さは、冷凍保存技術の向上や大量生産大量消費による食品の価格下落を招いた。肉を食べることが稀な労働者階級が、産業革命後には毎日肉にありつくことができた。それすら買う金がない人々でも、疲れを癒すための糖分補給のために、紅茶の茶葉と砂糖を手放すことはなかった。一方、囲い込みの影響などで職を失い、オーストラリアやニュージーランドにわたった白人入植者たちも、自由な農家としての暮らしをまずまずといっていいぐらいには成功させた。底上げの繁栄は、海外植民地をその大きな足で踏みつけることによって達成されたわけだ。

 本書の白眉は、東アフリカを巡るある料理の変容である。ケニアの部族であるキクユ族が粥として作る「イリオ」はトウモロコシを使って作る。もちろん南米原産のトウモロコシをアフリカにもたらしたのはヨーロッパ人だったし、そしてトウモロコシの生産を押しつけたのはイギリスの植民地当局による「帝国」の利潤増加のための政策だった。トウモロコシの価値に懐疑的だったアフリカ人も、イギリスの圧力(トウモロコシの価格を優遇させ、そして人頭税の支払いにあてさせるという驚異的なマッチポンプ!)に屈して徐々にトウモロコシ栽培が主流になる。だが、彼らにとってのトウモロコシは、栄養分を生み出すための調理法が欠けていたため、たんぱく質やビタミンBが不足していた。既に当局調査でアフリカの人々の栄養失調が判明していたが、イギリス人は傲慢にもその改善策を「彼らが伝統的な農法に固執せず、牛を飼って牛乳を飲めばいい」と結論した。しかし、保留地に住むキクユ族に牛の飼育を放棄させたのはほかならぬイギリス人である。こうした栄養失調は、後々のアフリカに暗い影を落としている。にもかかわらず、東アフリカの人々は今でも「イリオ」はトウモロコシで作るのが伝統的な料理法だと考えている。
 
 本書でも引用されているが、ブルキナファソの元大統領トマス・サンカラが言ったと伝えられる有名な言葉がある。「帝国主義がどこにあるかわからないというのか?……目の前の皿を見てみろ!」。「イリオ」のことを想起するならば、この言葉は格別の重みを持つ。この言葉を噛み締めて、先述の食事風景を読み返してみると、背筋に氷をぶつけられるような思いがしないだろうか。

 しかし、サンカラの言葉は問題の半面しか見ていない。大英帝国が運んだのは食材だけではなく、その生産の仕方、消費の仕方さえも押しつけたのだ。故に、盛り付けられた皿の上に帝国主義が初めて現れるのではなく、盛り付けられたものが根っこから生えてくる時点で既に帝国主義があったのだ。

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