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26.歎異抄より「悪人正機説」のラカン派的解釈

歎異抄に挙げられている「悪人正機説」について今まで良く理解できなかった。
しかし、数日前にラカン派的な解釈を適用することで、ようやく理解できたので、ここにその消息を記すことにする。
あくまで、私個人のジャック・ラカンの理論という補助線を用いた考えであるので、その道の達人とは異なる考えかもしれないことをお断り申し上げる。

そもそも、「悪人正機説」とは何物か解説を行う。

悪人正機説(あくにんしょうきせつ)は、浄土真宗の教えの一つで、親鸞(しんらん)によって提唱された。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という文言である。
この教えは、人間は本質的に悪であり、自己の力では救われることができないとする考え方である。

「善人でさえも極楽往生できるのだから、ましてや悪人が往生できないわけがない。しかし世間の人は『悪人でさえも極楽往生できるのだから、ましてや善人が往生できないわけがない』では?と常に言う。これは一応道理に聞こえるが、他力本願のおこころに背いている。」と説いている。「自力で善を成そうとする人は阿弥陀仏を信じてお任せしようとする心(他力を頼む心)が欠けているから阿弥陀仏の本願の主対象ではなくなっている。でもそんな心を改めて、心から他力を頼めば本当の浄土に生まれることができる。」としている。「煩悩まみれの我々はどんな修行をしたところで迷いの世界から抜け出ることはできない。そんな我々を哀れんで起こされた阿弥陀仏の本願の主目的は、悪人が成仏できるようにするためであるから、阿弥陀仏を信じてすべてをお任せできる悪人こそ、最も往生できる人である。」

歎異抄 - Wikipedia

ここでいう悪人は一般人のことで、罪を犯した者に限定せず、あらゆる人々が含まれる。
一方善人は自ら悟りを開こうと修行を行って仏になろうとする者のことである。
所詮人は煩悩から逃れられないのだから、自力で善を全うしようとする善人は見かけだけのものである。
そのような阿弥陀仏の本願から外れた欺瞞なぞ捨てて、まっすぐに阿弥陀仏に向かうことが出来れば、必ずや浄土にたどり着けるだろう。
ましてや、自力作善をしない/できない悪人の救済こそが阿弥陀仏の本願なのだから、阿弥陀仏を素直に信じて向かい合うことのできる悪人こそ、最も往生できる人なのだ。

このように解釈できるだろうが、しかし、唯物論的な観点から見るとかなり神話的すぎると思われる。
たしかに、宗教的に成功を収めた浄土真宗の要としては、阿弥陀仏(救世主)と向き合うことの大切さを説くこの文言は重要であるのは間違いない。
しかし、宗教装置としてだけではなく、別の読みによってこの「悪人正機説」を一般的な倫理にまで拡大することはできないだろうか?
宗教への帰属なしで、この文言が人間心理を表すことを説明できないだろうか?

そこで、私はここにジャック・ラカン的な解釈を試みる。

まず、「善人」を"自然と成熟した人間"に、「悪人」を"自然には成熟できずに未熟な人間"に、「往生」を"世界をよりよくする"に置き換える。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、「自然と成熟した人であっても世界をよりよくする。ましてや、未熟なままだった人間でならなおさらよくできるはずだ。」に書き換えられる。
この文言はなぜ適法なのだろうか?

自然と成熟した人間は、幸せになりやすい。また、世界を良くするだろう。
これは皆さまでも想像できるかと思われる。
しかし、自然と成熟できた人間は、成熟に困難を覚えなかったため、誰かを成熟させたいという欲望を持ちにくいのではなかろうか。

一方で自然と成熟できなかった人々、未熟なまま生きざるを得ない人々ついて、そのままでは幸せになることは難しく、世界をよりよくすることは困難だろう。
だが、そのような未熟だった人々が様々な困難を経て、成熟したとしたらどうか?
そのような人間ならば、「誰かを私と同じように成熟させてあげたい」という欲望を持てるのではなかろうか。
少なくとも、成熟に困難を覚えなかった人々よりも、成熟についての欲望やこだわりを持つに違いない。
そういった人ならば、周りの未熟な人々をなんとか成熟させるべく行動すると思われる。
つまり、「成熟への欲望」を持つことで、未熟な人々に「成熟への欲望」を伝染させることが出来ると思われる。

「私の欲望、それは他者の欲望です」

ジャック・ラカン

この言葉の通り、成熟への欲望もきっと伝染するはずである。
であれば、自然と成熟できた人よりも、未熟なままになってしまった人に対して向き合うことで、「成熟への欲望」を喚起し、成熟した人を増やせるはずである。
そうすることで、この世はもっと良い世界になるだろう。

「悪人正機説」は善人よりも悪人を、成熟できた人よりも未熟な人に向けてアプローチすることが、より世界が良くなるために効果的であることを指したものと、私は解釈することが出来たと思う。
自然に成熟することができなかった未熟な人間であれば、なおさら「成熟の欲望」を強く持ちやすい。
この「成熟の欲望」を喚起することが、成熟した人間を増やす近道なのだろう。