卒業式って誰のため?理想の卒業式を考えていた4年前のこと
今日から3月。
2017年3月17日の自身の振り返りを読み直す。この当時、毎日続けてた振り返り日誌。(公立小学校の6年生の担任だった頃のもの)
今日、初めて6年生の門出の言葉を通して聞いてみた。
以前なら「もっとクオリティを!」って思っていたんだろうけど、
これで良しとすることにした。
もう練習はしない。たぶん。
次は予行だ。
卒業式の直前にこの書き込み。
よくある卒業式の門出の言葉(呼びかけ)についての記述。
「呼びかけ」って知ってますか?あの感動するやつ。(来賓とかのためのショーみたいなやつ)
公立小学校時代、何度も卒業生に関わってきた。ずっと「呼びかけ」の練習を繰り返し、そのクオリティを上げることを目指してきた。(多分大人のために)
でも、この年は子どもたちと話して多分それをやめたのだと思う。それに対して職場の後輩からこんな質問をされた。
これでよしとする心境になったのは何か理由があったのですか?
十分気持ちが伝わってきたから?
何度も何度も練習していくうちに、気持ちが下がってしまうという予想?
あの子たちなら大丈夫という信頼?
それとも???
ぜひ教えてください。
自分だったら、なかなかできません。
ずっと私の振り返り日誌に付き合ってくれたありがたい後輩の言葉。そりゃそうだよな。そういう質問が出るのも当たり前だよな。それに対して3年前の私はこう答えてた。
呼びかけって、繰り返し練習してお互いにすり減るからね。言葉に飽きてくるし。だから全体練習でも卒業生は一度もやらなかった。在校生は予行で初めて聞くことになる。いいでしょ?
二週間前、呼びかけ台本をみんなで作った後、私の出張中に自分等で担当決めた。完璧に決まって、ご丁寧に青山の分の台本もできてた。
「予行で初めて聞かせて」って伝えて、ほっといたらどうなるか、すごく興味があった。だからやってみた。
ちなみに証書授与はまだ一度もやってない(笑)礼法指導も。自分等で練習をやってるみたい。授与の後の一言も何を言うのやら。。
今日、お楽しみ会の前に「一回呼びかけやっとく?」みたいな雰囲気になり、期せずして初めて聞いてみることに。
途中、歌のパートに二回移動するのも完璧にできていた。
Mが休んでたけど、しっかり通した。
いつの間に練習した?休みのMの分は誰がやった?
終わった後、「どう?心配なことある?」って聞いてみたけど、「いや~大丈夫じゃない?」みたいな反応。
その後はたっぷり遊んで、さよ~なら~
目指してるのは、やらされ感ゼロ。教師の存在感ゼロ。超主体的な卒業式。
ちょっとカッコつけてる感もあるけど、言いたいことは分かるよ、4年前の俺。大人のための見せ物みたいな卒業式はもういらないってこと。別に呼びかけを間違えたっていいし、礼法が多少できてなくてもいいし、歌が下手くそだっていいってこと。卒業式は何のため、誰のためかってこと。
卒業式を再考したい。