見出し画像

坊やへの向き合い方#1

ひとり親と私の考えと。
※前の記事と重複する文面がありますが、次の記事への説明的な部分であるので、読みたい方は読んでいただいて、読みたくない方は飛ばしてください。


ひとり親が当たり前で、大変と言われたくなかった

坊やが一歳すぎにはひとり親になっていた。
何も不自然ではなく。
むしろ、離婚処理が全て終わった日には、落ち着いて良かったとほっとしたことをよく覚えている。
(坊やの遺伝子的父親から養育費も慰謝料も全くもらっていないです。離婚後会ったのは2回ほどですが、基本音信不通です。笑。
後日その人について書くかもしれません。とても優しくて不器用な人です。私からしたら悪者ではないです。)
赤ちゃんの時もその人は親業をそんなにすることができない人だったので、ほとんど家にはいなくて、だから、私と坊やの生活や接し方に変化はなかった。
ずっと坊やを育てているのは私だけという感覚でした。

ひとり親ということを致し方なく言うと『大変だね』とよく言われてきたが、そんなふうに全く思ったことがなかった。むしろその言葉を嫌悪していて、そう思われないように、自分がまず苦しくないよって楽そうに見えるように振る舞った。(家事や仕事を当たり前のように全てこなしながら、坊やとの時間を楽しんだ。)
『親の行動や思考が制限されることを絶対に子供のせいにしたくなかった。』だから坊やとの2人暮らしを心から楽しんだ。そして坊やには極力不自由ないようにした。(好きな人と会って、おしゃれをしたり楽しみながら生活した。)
無理っていう人がいるかもしれないけれど、無理じゃなかったりする。(私も坊やも知らない喜びは欲しがらないから。分相応、なだけなのかもしれないけれど。)
難しいことはあっても、嫌ではなくて。
私は、毎日しあわせで。

毎晩坊やに寝る前に『大好きだよ』と伝えている。生まれてから毎日。
いつの間にか坊やは『今日は最高の一日だったね。ぼくもはるのこと大好きだよ。』と答えるようになっていた。(どこかで覚えてきたらしい。)

生活と、親子関係と、坊やの性格

たまたま私のところに来てくれた不思議な生き物を大切に大切にしながら、私の生活(衣食住など)に、ついでに坊やも含む、ようなイメージで生きてきた。
教育、とか親だから、と思って接したことはなかった。

意図的に?泣かせたことはなかった。
暴力もしないように意識してきた。
従わせようと思ったことがなかった。
0〜1歳で生理的になくことや、2歳の頃に発達過程でギャン泣きしていたことはあるが、それは普通の範囲で多分、それ以降で大泣きするほど怒ったことがほぼなかった。

私の希望として、『親の気分や都合で子どもを振り回さないように』という気持ちがとても強かった。理不尽が嫌いだった。理由のない苦痛を与えたくなかった。言葉が伝わるようになってからは、全てにおいて基本的に言葉で説明して、要望をまず聞いて、私の要望も伝え、相談し、時に交渉し合いながら、お互いに納得して、落とし所を見つけて、生きてきた。2人で。

私が優しくすると、坊やも優しさを返してくれた。

坊やの力が足らないところは、今は発達的にまだ身についていない力だから、私がカバーするか、他の方法を考えた。坊やの気が向いた時に練習をすることはあっても、無理をさせることを極度に私が嫌いだった。

坊やは基本的にとてもいい子で。
物分かりが良くて、約束を守る(私より忠実に)。
お話は聞いてくれる。
自己主張を上手くできる。自分の気持ちを人に伝えられる。(僕はこれをやる、相手は好きなことをする、を理解して許す多様性がある)
小さい子が好きで面倒見が良い。
上の子が好きで甘え上手。
自分の好きなものを探究し大切にできるところは強く、尊敬すらしている。
だからあまり困ったこともない。
困ると言えばいつも私の至らなさだけだった。

自分時間を作ろうとしたことがなかったことと、母子分離不安

私のひとりの自由時間を1分も作ろうと思ったことがなかった。
私の周りには簡単に子供を預けられる人はいなかった。(両親は近くに住んでいるし、会うことは会うが、養育は親がするもの、代わりに祖母祖父がするものではないとはっきり伝えられていた。)
坊やは私と共に過ごすことが安心でそれを求めていて、拒否する理由はなかった。
私も坊やといることが安心だった。支えられていた。坊やの幸せが私の幸せだった。だから、私の欲を出したことがなかった。と言うより、無かったに近い。
(そばにいたらなんでもできた。それは多分依存なんだと最近心理士さんに教えられた。)
だから、休んでこなかった。
それが当たり前だと思っていた。

寝てる時も離れると眠れない子でずっとそばにいた。
トイレの時間も入ってくるのでそばにいる。
お仕事を始めるまで(保育園待機の育休期間)は、抱っこでひたすらにお散歩をしていた。朝も昼も夕も夜も夜中も。坊やが起きたら、行きたがったら、いつでも。(私もそれを楽しんでいた。そうすると安心する子だった。)
保育園に入り仕事がお休みの日は、言葉が話せない時期はとにかく坊やの好きな線路を走る電車を眺めたり、意味もなく何々線に乗りに行こうと一日使ったこともある。そんなことばかりしていた。
(何故か言葉が通じなくても意思は手に取るようにわかった。母の不思議。)
少し大きくなってからは、大体坊やの好きな水族館に出かけり、公園に行ったり。
食べ物は、坊やの趣向と体のことを考えたタンパク質野菜炭水化物などのバランスの良い食べやすい食事を自炊をしている。(外出時はコンビニとかファストフードも使う。)

お仕事で保育園に行くという理由は理解してくれていたが、それ以外ではとにかくハルのそばに居たいし、保育園は疲れるから行きたくないと言われて、
私が風邪を引いた時の通院も市役所もいい子でついてくるからと言っていたので保育園を休ませて、一緒に連れて行った。
私がインフルエンザで休んだ日さえ、枕元でおもちゃを広げさせてそばで見ていた。(4歳頃)
確かにと思ったし、まあいいかとも思っていた。

友達と会う時は、坊や込みで遊べる遊びをした。
お友達とのご飯も全部、坊やと共に行った。
坊やのことを認めてくれる人としか、遊ばないようになったが、そもそも頻繁に友達と遊ぶタイプではない(2人でばかり遊んでいた)ので問題はなく、むしろ、坊やに優しい人ばかり、今は周りにたくさんいる。

※仕事の時間だけは保育園だった。
保育園に朝7時半から夕方18時ギリギリまで。土曜も預けることはとても親のエゴだと思い心苦しかった。保育園に行かせる時だけは無理やり大泣きをさせて預けたことが何度もある。

友達親子と言われたことと、坊やの言葉遣いと、私の想い

私が見た目と振る舞い方が幼いことから親と見られないことも多々あった。
友達親子だねと周りからはよく言われた。
よくどこでも話していた。ボケとツッコミみたいに。
楽しんでいた。楽しそうとよく言われた。
少しうるさいけれど。
3歳頃は彼氏みたいだなあと思っていたりしていた。
『一緒に見よう?』『一緒に探そう?』『どうして痛いの?大丈夫?』『ちょっと手を繋ぎたいな。』そんな言葉ばかりくれた。
喧嘩はあんまりしたことがなく、怒ることもしたことがない。叱ること、伝えることはあるけれど。
保育園の先生は口を揃えて『坊やはママが大好きだからね』という。そうらしい。

坊やは言葉遣いがとても優しい。
上手く世界を捉えることができる。
(売り切れのおもちゃは人気だったからだねと、納得できる。など)
そして使い方も上手いと思う。
ときどき屁理屈を言うけれど、嫌な気持ちより先にそんなこと考えているのか、と驚いたりする。
ちゃんと希望があって、理由がある。
そして、『ありがとう』と『大好き』は多用している。

とにかく、人を故意に傷つけることはよくないこと。
あとは人と人のルール、人が嫌な気持ちになることを考えるように、そんなふうにまあ、大事なことはちゃんと伝えてきた。

もちろん、1人だけで育てられたわけではない。
自慢したいわけではないし、無理強いしたいわけでもない。
私はそうするしかなかった。
たくさんの人に助けられたことは自覚している。保育園、職場、友達、市の支援、そしてきっと家族にも。でも責任は全て私だった。常にそばにいた。

続きます。
毎度毎度、長いですよね。
いつも、読んでくれてありがとうございます。