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赤く透き通るその球体は、他のどれよりも私を虜にしました。
一人で暮らすようになった今こそ毎日の食事を自分で調達するようになりましたが、実家で過ごしていたころは今日の食事をどうしようかなんて気にしたこともありませんでしたし、その問題は私のところまで到達するものではないと思い込んでいる節がありました。キッチンの前に立つ母を冷やかすことはあっても、包丁を握ることはほとんどなかったように思います。
母の立つキッチンの後ろには、キッチンと同じ濃い茶色をした棚があり、そこにはいつも私と弟の好きなお菓子が入っていました。それはクリームが挟まれたクッキーだったり、チョコレートだったり、スナック菓子だったりしました。奥の方には、父のために買い置きされたポテトチップスが押し込まれていました。母が夕食を作る傍ら、その棚に手を伸ばしお菓子を頬張っていたのを思い出します。決まって夕食前にお菓子をつまむ私を母はいつも窘めました。その都度言い返す私の言葉を思い出すと、あまりの無神経さに身体の内側が痒くなって声が飛び出そうになります。
一番最初に料理らしい料理をしたのは小学三年生のバレンタインでした。近所に住んでいた同級生に誘われたのだったと思います。それまでほとんど包丁を握ったことも、キッチンに立ったこともありませんでした。私はその同級生に好きな異性がいることを知っていましたから、それなら一緒にバレンタインを渡そうと私が誘ったのだったかもしれません。
母から「お菓子の本」とだけ書かれた分厚い本を借りて、それはそれは真剣に端から端まで眺めました。両手に抱えてもずっしりと重い、大きな本が湿気を含んで波打っているのを見ていると、それはそれは信頼のおける一冊であるような気がしました。クリームの上に乗ったイチゴはどれもきらりと光を反射していて、マシュマロは背景に溶け入りそうなほど淡い儚げな色をしていました。
いつになく真剣な眼差しで料理本を眺める娘に、母は横から「それは難しすぎるよ」「これなら簡単なんじゃない」と口を出します。私は耳を傾けようとしませんでした。少しくらい言い返したかもしれません。今なら母の気持ちがよくわかるのですが、当時の私の目の前には無限にも思える可能性が広がっていたわけですから、大目に見てあげてほしいと思います。
突然でした。私の目に鮮烈な”赤”が飛び込んできました。
鮮やかな赤でした。透き通るように透明な赤でした。
当時の私は、型抜きでハートを量産するようなことはしたくないと確かに思っていました。小学三年生は、今の私が考えるよりもう少し大人なのだろうと思います。単に、ハートの形が恥ずかしかっただけかもしれません。でも、あんまり難しすぎて失敗すると大変だということも本当はよくわかっていました。母の言葉も、届いてはいたのです。昔から、右から左へ言葉を受け流せるような器用さはありませんでした。
そんな私の要望がぴったり叶う、鮮やかな赤がそこにはありました。
私が見つけたのは、ドレンチェリーという真っ赤な球体がクッキーの中心に埋め込まれたものでした。型抜きで抜かれたようなきまりのよすぎることもなく、気品漂うその姿は私の気持ちを惹きつけて離しませんでした。一目惚れでした。母は私の選んだそれを見て少し顔をしかめた記憶がありますが、大人になってスーパーへ出かけても売り場でほとんど見かけないドレンチェリーが家に用意されたということは、最終的には私の我儘に母が折れたのでしょう。
どうやって作ったのか、その過程はほとんど思い出せません。まだ材料だったドレンチェリーはぴかぴかと輝いて見えたのに、完成したクッキーの中央に鎮座するその頃には皺が寄り光沢もなくなり、随分とがっかりしたのは覚えています。
もさもさと味気のないクッキーは口の水分を奪い、中央に埋め込んだドレンチェリーは前歯で千切るとどろりと甘く歯にねっとりとへばりつきました。美味しくありませんでした。
母は「お母さんも食べていい?」と私の顔を覗き込みました。顔を上げると、母と目が合うと悔しくて顔を歪めてしまいそうで、母から顔を逸らしながら小さく頷きました。母は特に形の悪い一つを手に取り、口に運ぶと「うん、美味しいじゃん!上出来上出来!」と言いながらキッチンを出ていきました。
母は嘘がつけません。その言葉が母の限界だったのだろう、私の姿を見て察した母は娘を傷つけまいと褒め言葉を用意してからクッキーを口にしたのだろうと、娘にはわかってしまいましたが、それでも私は救われたはずです。だって、それを箱に詰めてしまわなければいけなかったのですから。
わたしの初めてのバレンタインは上出来とは言えませんでしたが、それでも母の一言に私は救われました。母が料理上手であることを知るのはもう少し後になってからのことです。私は母に、もっと「美味しい」を言うべきだったと後悔しています。母は「美味しい」が私を救うであろうことを知っていたのですから。
実家に帰ると、母は料理を作ってくれます。「外食で済ませようか」と遠慮がちに聞くのは、学生時代の私が外食を好んだからです。無意識であろう母の少し寂しそうな顔を見るたび苦しくなって少し泣きそうになりながらも、なんでもないような顔をして自粛期間を言い訳に母の手料理をねだります。今度は、私も一緒にキッチンの前に立って。母の手料理と、一緒に過ごす時間の大切さをあの頃よりはよく知っているつもりです。
一口食べて、すぐ「美味しい」といいます。絶対に言おうと思って言いますから、本当においしいのに少しわざとらしくなります。それでも、母は「本当?」と笑ってくれます。私は、学生時代に言い忘れた分を慌てて取り返すように、何度も何度もおいしいと言います。母に笑ってほしくて、寂しそうな顔に上塗りしたくて。あの頃言わなかった「美味しい」を、これからも私は少しずつ返していくつもりです。