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遊びの規則に対して懐疑はありえない。

文化の読書会ノート

ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』序説および第1章 文化現象としての遊びの本質と意味

(序説によれば、ホイジンガの関心は)文化そのものがどこまで遊びの性格をもっているか、である。遊びが文化においてどういう位置をしめるか、ではない。これをテーマに本を書くに情報が十分ではないとは承知のうえで、彼は本を書くことにした。

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遊びは文化よりも古い。子犬がじゃれる様子をみればわかるが、遊びは文化以前で、人間に限られたものではない。

心理学や生理学などの分野で遊びについて多数の解釈がされているが、論理的な説明では、人を夢中にさせる力のなかに遊びの本質ー緊張、歓び、面白さーがあることが見えてこない。

特に「面白さ」は、いかなる論理的説明をも受け付けない。オランダ語の「aardigheidアールディヒヘイト(面白さ)」が、その特徴をよく表す。aardはドイツ語のArtに対応し、「あり方」「本質」「天性」という意味がある。つまり、面白さはこれ以上の根源的な概念に還元できない、との証明だ。

遊んでいる人が自ら感じとっているそのままに、その根源的な意味合いのなかで理解しようとするのが、本書の目指すところだ。

人類が共同生活を始めるようになったとき、その原型的行動には、最初から遊びが織り交ぜられていた。文化を動かすさまざまな原動力の起源は神話と祭祀にあるが、これらは遊びとして行動することを土壌にして、根をおろしている。

遊びは、概念として、他の思考形式とまったくの別物である。だから、逆に、遊びを独立して扱いやすい。そこで、社会的遊び、比較的高級な形式の遊びに限って考察できる。競技、競走、見世物、演技、舞踏、音楽、仮面舞踏会、中世騎士の馬上槍試合などだ。

遊びの特徴の第一は、ひとつの自由な行動である、ということだ。命令された行為ではない。

第二の特徴は、「日常の」あるいは「本来の」生ではない。日常生活から、ある一時的な領域へと踏み出していくことだ。必要や欲望の直接的満足という過程の外にある、あるいは過程を一時的に停止させる過程の合間に割って入るものだー仮装や扮装が例に挙がる。

第三の特徴は、完結性と限定性だ。定められた時間と空間内で「遊びを切り上げる」。アレーナ、トランプ卓、魔術の円陣、神殿、舞台、スクリーン、法廷などが場所の例だ。一つの固有な絶対的な秩序を統べ、美しあろうとする美学的領域に属するーそのなかでもリズムとハーモニーが不可欠。

この秩序の維持のために規則がある。遊びの規則は絶対的な拘束力をもち、「これを疑うことはできない」(ポール・ヴァレリー)。「遊び破り」には、いかさま師よりも厳しく立ち向かわないといけない。「遊び破り」は遊びから幻想を奪い取ってしまうからだ。

祭祀とは、何かを表出して示すこと、劇的に表現して表すことだー神々の展覧に供される。「人類は自然の秩序を彼らの意識の上で捉えたそのままの形で演じ遊んでいる」(レーオ・フロベーニウス)。祭祀的な遊びによって未開社会は統治制度のもっとも初期の形式を獲得する。

祭祀は最高の真面目さ、至高の厳粛さと呼ぶべきものだが、同時に遊びであるとはどういうことか?遊びがまったくの真面目さのなかで行われないこともない、という事実を前提にして、であるープラトンは遊びと神聖なるものを同一化した。

美と神聖の遊び、というのがあるのだ。この観点にたつと、祭祀的形式と遊びの形式の間にある同質性が浮かび上がってくる。場所や時間の制約だけでなく、心的にもそうだ。祝祭の全体的気分と密儀への聖なる昂揚感を区別するのは難しい。

「ただ、本当らしく見せかけて、そのふりをしてやっているだけなのだ」という遊びにある特徴も、聖事と結びつくのか?

A.E.イェンゼン『未開民族における割礼と成年式』によれば、未開人の人たちの宗教的儀式における精神状態は、完全な恍惚感や幻覚状態ではないと観察されている。

遊びの概念のなかでこそ、信仰と信仰以外のものとの統一がなしとげられて切り離せないものになったり、神聖な真面目さと単なる見せかけや楽しみごとが結びつくわけが理解できるようになる。

<わかったこと>

オランダ語で書かれた本書の刊行は1938年である。

解説も読まずに序説から読み始めた。

ホイジンガの『中世の秋』は「いつか読む本として」本棚に長い間鎮座してきたが、本書『ホモ・ルーデンス』は今回、買った。読み始めて数ページで、これまで『中世の秋』を読んでいなかったことを痛烈に後悔しはじめた。

ホイジンガは闘っているーーそのエネルギーをおよそ80年前の本に現在形で感じるのだ。30年代の欧州の政治社会状況がホイジンガに迫ってきたこともあろうが、それまでに支配してきた見方ー歴史だけでなく、人類学などさまざまな領域ーに対して「私が不十分だ!言うしかいない」との意気盛んぶりだ。

自身でも書いているが、彼が目指そうとしている全体的把握に「知識として至らぬ点」があったとしても、そこに挑戦しないとはじまらないとの覚悟が読む者を圧倒する。

テーマは「遊び」である。

ミラノ・トリエンナーレ美術館で開催されているアレッサンドロ・メンディーニ回顧展(冒頭の写真)を先月から2回に渡って鑑賞した。メンディーニは最初は戯画を描く人間になりたかったらしい。子どもの描くような表現を生涯にわたって続けた。

メンディーニも遊びに拘り、全体性に拘った。

遊びを小分けにして分析するなどありえないと考えたのは、ホイジンガもメンディーニも同じだろう。





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