ケルト語族がヨーロッパのチーズ製造の方向を決めた。
読書会ノート
ポール・キンステッド『チーズと文明』第3章 貿易のゆくえ 青銅器とレンネット
紀元前1025年頃、イスラエルの民、ダビデの一族は内陸部丘陵地・カナンの地に定住していた。一方、ペリシテ人(ギリシャ人はパレスチナ人と呼ぶ)は海岸沿いの平地におり、お互いに対峙していた。
聖書によれば、ダビデはサウル王が駐屯していた隊の長のため、エラの谷までチーズ10個を届けた。日持ちのする状態であったことからすると、レンネット凝固によるチーズだったと考えられる。当時、北方のアナトリア(現在のトルコ)ではレンネットの使用が十分に確立されていたからだ。
そして、ダビデはペリシテ人勇士・ゴリアテを石で殺す。ここからダビデの名声ははじまり、その家系から1000年後、大工の息子イエスが生まれる。即ち、西洋史の大きな変化の現場でチーズが存在感を放っていたことになる。
2つ地域の流れをみてみる。
前章に述べたように紀元前3000年頃、ウルクを中心にメソポタミア経済が反映した。それが北部のアナトリア(ヒッタイト文明へ)や西方のエーゲ海にも影響する(運搬方法、集約農業、都市文明)。交易網が広がるわけだが、海上貿易は小さなオールで漕ぐ舟で行っていた。地中海とエーゲ海の一大ブロックができるのは、エジプトで生まれた帆船が普及する紀元前1000年代終わりだ。
紀元前800年頃、アナトリアの都市ハットゥサを中心にヒッタイト帝国ができ、メソポタミアと同じく神殿とそこに食品などの供え物を蓄える倉庫があった。パンとワインが主要な神々に供されていたが、チーズも「天候の神をなだめるため」に捧げられた。
楔形文字の記録をさぐると、「すっぱいチーズ」「年数を重ねた兵士のチーズ」との表記があり、これらはレンネット凝固によるものと推定される(直接の証拠となる記録は紀元前1400年頃のもの)。かつ、紀元前1200年頃には遠距離海上貿易の品目にチーズがあった記録がある。これはチーズを運ぶに適当な技術と方法(陶器に粘土で蓋をする)も開発されていた証だ。
ギリシャのクレタ島にもミノア文明が誕生。紀元前1000年ころ、宮廷があり、行政宗教機構による統治から、メソポタミアやアナトリアの強い影響の跡をみる。楔形文字から線文字A、移動農法の組織化と羊毛生産と織物産業の促進もそうだ。しかし、この文明は短期間だけで、ギリシャ本土に台頭してきたミケーネ人の文明に併合される。
ミノア文明にチーズがあった証拠はないが、ミケーネ文明での線文字Bには記録が残っており、チーズの使われ方はメソポタミアやヒッタイトと同じである。紀元前10世紀の青銅器のチーズ摩りおろし器が見つかっている。
他方、北方ヨーロッパはどうか?紀元前6000年代、新石器時代の移民が作物の品種改良、牧畜、酪農業を持ち込んだ。紀元前3000年代、中央ヨーロッパで畜産が前進。休耕地と収穫後の切り株畑の利用が進んだのだ。寒冷化により、高山の樹木限界線が下がった(紀元前3500年で300メートル)ことで、家畜の放牧が広く可能になり、人々の生活パターンと農業戦略が変わった。バルカン半島の家畜の骨の分布からも明らかだ。
紀元前2500年頃にあったスイスやアルプスの花粉や植物の化石からも、上記の裏がとれる。紀元前1000年代、スイスや北部イタリアでの高地農法が盛んになり、アペニン山脈でも同様だった。ヨーロッパ山岳地帯に共通する現象で、「山のチーズ」との別種も発展する契機となった。ここで活躍したのがケルト語族であり、彼らがヨーロッパにおけるチーズ製造の方向付けをした。
<わかったこと>
今もスイスやオーストリア、あるいは北部イタリアなどの山々の高原で放牧されている風景が、実は樹木限界線の低下によりはじまったのである。山を登っていくと、森林がだんだんとなくなっていくが、その高度と温度に「深い呼吸をしたくなるアルプスの畜産」の原点があるのだ。
それにしても、次章以降に出てくるのだろうが、長い間続いていた自然を相手にする農業、宗教、政治権力の3つがセットになっている社会に普及する考え方への疑問(→紀元前6-700年の哲学の誕生)が、貿易で「身軽な」地域で生まれてきたのは、極めて当然なのではないかと夢想する姿勢ができてきた。