1982年のザルツブルクとニース
1970年代のイタリアのデザイン状況が80年代以降の第二期的イタリアデザイン史をつくった。これをテーマにした本を書くために、たまにSpotifyで1970-80年代のヒット曲を聴いている。
昨年、日経新聞に80年代のメンフィス・ミラノのことを書いたとき、70-80年代の音楽をもう一度聞き込んでみようと思ったのだ。どちらかといえば青春を懐かしむことを長い間、忌避していた。ずっと蓋を閉じていたのである。それから、あの時代の音楽に浸ることがある。
つい最近、noteのおすすめで卒業旅行で1982年3月、オーストリアのザルツブルクを旅した方の文章に出逢った。まったく同じ時期にぼくもザルツブルクにいたことを思い出し、15年以上前に書いた文章「ぼく自身の歴史を話します」に追加を書いておこうと急に思った。
ぼくが1990年からヨーロッパに拠点を移そうと決めたのは、上記に書いたように、新しいコンセプトをつくることに人生を賭けようと思ったからだ。その直接の契機が英国のスポーツカーメーカーであるロータスと一緒に仕事をした経験だ。
しかし、その前哨戦がさまざまのタイミングであった。
フランス文学が社会全体を思考対象とするのに最適であると思い、大学は仏文科を選んだのもそうだが、小学校の時にはじめてみた洋画が「サウンドオブミュージック」であったのも一因だった。
大学時代、海外旅行に3回出た。最初がパリ、2回目が英国、スペイン、フランス、イタリア、西ドイツ、オーストリア、3回目がタイだった。2回目の欧州でオーストリアに行ったのは、その頃に付き合っていた彼女がザルツブルクに留学していたからだ。あろうことか、「サウンドオブミュージック」の舞台になっていた湖に面した邸宅が彼女が学んでいた大学だった。
あの時のザルツブルク滞在が、ぼくのヨーロッパへのその後の挑戦のきっかけであったと思い出したのだが、それと共にもう一つ記憶に蘇ってきた。この2回目の旅行でニースのシャガール美術館を訪ねたとき、将来、地中海世界に住みたいと思ったのだ。
ある覚えやすい事件のようなことで、人生の分岐点で必然のようにある道を選ぶことがあるが、それは案外、選んだような気になっているに過ぎない。「たまたま」のように思えることは、さまざまな小さな経験が道筋を作っていたことが多い。
ぼくにとってのニースとザルツブルクがそれなのだろう。
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冒頭の写真は、「ぼく自身の歴史を話します」で書いたトリノ時代のボス・宮川秀之さんと息子の宮川マリオさん。2015年、トリノで宮川さんが半生を振り返るトークショーに登壇したとき、長男のマリオがインタビューのかたちをとった。
宮川秀之さんはカーデザイナーのジュージャロとイタルデザインをつくった。イタルデザインは1970-80年代の世界のカーデザインの最先端だった。
マリオは90年初頭も今もF1の世界で生きている。お2人と長らくご無沙汰している。マリオの弟の宮川ダビデは知り合った頃は高校生だったが、今はブルネロ・クチネリジャパンの社長をしているので、毎年、定期的に会っている。
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