イタリア人の人生観は「理性の悲劇 意思の楽天」と表現される。
ファビオ・ランベッリ『イタリア的 「南」の魅力』の第5章 イタリア的悲劇観ー明るさは暗く、暗さは明るい 終章 イタリアから何を学べるか
多くのイタリア人は、現状に我慢しない。革命は求めないが、じっとしていない。そのために、変化がじょじょに着実におこる。
カギとなるのは arte di arrangiarsi (うまく切り抜ける技)である。「狡猾さ(furbizia)」とグラムシの表現する「理性の悲劇 意思の楽天」が根底にある。理性的にみれば悲観的としか形容できない状況にあろうと、そこを脱皮したいとの意思に偽りはないのである。
人生に「形」は不要だ。が社会で生きるに「形」を要する。でなければ存在を認識してもらえない。この狭間を痛烈に感じたルイジ・ビランデッロー確実性の崩壊やアイデンティティの危機をたえず主張ーの詩学にみる人間疎外も、絶望と明るさとの対比から論じられる。
前進を試みるには、明るくしているしかないのだ。
レオパルディ、ヴェルガ、ビランデッロ、グラムシ、パゾリーニなどはイタリア的悲観思想史の系譜に連なる人物である。いずれもが、「暗さ」と「明るさ」を表裏一体にして表現していた。
(以上のような傾向はサッカーにおいても見られた。欧州他国選手と比べて体格的に劣勢であった1950-60年代、守備を優先する「カテナッチョ」も、大局的にみると悲観するしかないことからくる必然的な戦術であった。相手にゴールを許さないのが第一。しかし、ある瞬間に相手の攻撃に穴があいたとき、相手ゾーンに大きくボールを蹴り込み、一瞬にして攻め込む。ここでもfurbiziaが活用され、ゴールを狙う。これがイタリアのサッカーの伝統だと言われたのである)。
さらにイタリアの悲観主義の根本には、モダン(近代)への拒否感、あるいはイタリアの近代化への失望がある。理想モデルには、合理主義、民主主義、教養、人間尊重、オープン性、当局への信頼が挙げられ、アルプス以北のシステムで具現されているかのようにみえた「一面」である。悲観はイタリアのユートピア志向の特徴が生んでいるともみえるが、かといって保守主義ではない国際的な感覚のうえでの思想である。
他方、ヴァッティノの「弱い思想」は絶対主義的な思想を批判し、カッサーノの「南型の思想」もアングロサクソン系への価値批判がある。カッサーノは右派に独占されていた「聖なるもの」「伝統的価値」を異端(新しい発想)や革命(新しい秩序)への基盤にすべきと考える。
これらのイタリアの文化土壌が生む新しい社会モデルは、「自由時間を中心に展開される労働観(カトリック、社会主義、共産主義、自由主義の4つにある共通項)」「スローライフ」「国境を無視する異文化交流」「地域性」によって特徴づけられる。日本のこれからにも参考になるだろう。
<わかったこと>
イタリアは歴史とコンテクストを重視するために、保守的で変化が乏しい社会とみられることが多い。しかし、着実に前進するための工夫は惜しまない。
例えば、女性の企業幹部への採用比率をみてもわかる。1990年代、日伊にあまり差はなかったが、現在、イタリアでの女性進出は大幅に増え、両国の間には大きな差(伊の役員に占める女性の割合が38.4% 日本が10.7%)がある。
また、この10年ほど、サッカーにおけるカテナッチョも下火だ。役割を定めないサッカーが世界の主流になった今、カテナッチョは意味がない。こうしてイタリアは変わりつつあり、はっきりしているのは、ランベッリが新しい社会モデルとしてあげている特徴は確実に普及しつつあることだ。
映画『Lif is beautiful (La vita e' bella)]は、ナチス支配下における強制収容所における生活を、父子のサバイバルゲームとして描いた。生きる意味を考えさせられる作品だ。そこに、冒頭に書いたarte di arrangiarsi や「理性の悲劇 意思の楽天」を重ね合わせると、いろいろな断片が繋がってくる。
デザイン文化の語りも充実したものにできそうだ。