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「人間中心」に安住しないアプローチをとる心構え

林さん

先月、ミラノでお会いした際の話を下記にまとめてくださり、ありがとうございました。

お知り合いになったのがClubhouseだったのは覚えていましたが、それがラグジュアリーの新しい意味に関するルームだったのは、まったく忘れていました。ただ、林さんがベルガンティの『突破するデザイン』を既にお読みになっていたのは記憶しています。

この2月は、昨秋に出した訳本、エツィオ・マンズィーニ『日々の政治』と読書会でとりあげていた彼の"Design, When Everybody Designs"にはまり込んでいたため、次のような台詞を何気なく言ったのかもしれませんね 笑。

「ベルガンティのリーダーシップ論とマンズィーニのデザインケイパビリティに繋がりを見出せると、新しい風景が見えると思います。」

しかし、思いつきで言ったわけではないです。『突破するデザイン』を監修してから意味のイノベーションのエヴェンジェリスト的活動をしていくなかで、自分の想念からスタートしたビジョンやコンセプトにはオーナーシップをもて、ひいてそれがリーダーシップとして表現されると実感してきました。だからこそ、ベルガンティは「控えめであるのを大切にしたい」と逆に言うわけです。

一方、マンズィーニの考えが2人の影響を強く受けており、1人はイタリアで1970年代に隔離した精神病棟を廃止に追い込んだ医者、フランコ・バザーリア。彼の「人の普通と異常の区別をどうつける?」との問い。もう1人がインドの経済学者、アマルティア・センが唱えるケイパビリティ。誰にも歌う力があるじゃないか、と。

いわゆる「今やピラミッドじゃなくてフラットだよね」という流行りの解釈からではなく、誰もがいずれかのタイミングで必要に応じてリーダーシップをとる場面に「出演」する可能性があり、その能力に差はさしてないのをベルガンティとマンズィーニの言葉は示しています。

リーダーシップとは力づくでとるものではなく、ちょっとした状況の変化を感じながら、「向かうべき目的地を設定して」いく振る舞いです。そうであるならば、デザイン文化のエコシステムの創り方を強調するマンズィーニ。エコシステムを創りながら、そこでより意味ある展開を導くためのアプローチを説くベルガンティ。2人が見せてくれる風景には期待できるよ、とぼくは言いたいわけです。

これをベースに話を続けます。

林さんが引用していたマンズィーニのDesign Mode Map(下図) は、彼の"Design, When Everybody Designs"にあるチャートです。お読みになったように、彼はデザイン領域がそれぞれの象限で独立してあるわけではなく、お互いに相互作用があり、4つの象限がオープンループに繋がっていると書いています。アウトプットがあって終わりとはならないのが、今のデザインであるとも話しています。

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ベルガンティの語る意味のイノベーションは、expert design という4象限の上側にあり、当然、右側のsense making、ここに焦点をおいていますが、あくまでも全体のコンテクストをみたなかでの第一象限です。実際、『突破するデザイン』のなかでも、延々と「問題解決ではなく、意味づけ、意味形成だ」と語ったところで、「さて、意味のイノベーションは問題解決から入る」と説明しています。

やや抽象度の高いビジョンなりを切り口に目的地を設定するのはハードルが高く、それなりに具体性のある問題をネタにもちなさい。しかしながら、そんなところで安住しちゃあだめ。即、センスメイキングに戻ってこいよ、というわけですね。これは結局、マンズィーニの「デザインはオープンループ」と同じことを言っているのですね。

さて、こうしてやっとアレッサンドロとルーカの部分にたどり着きます。基本、2人はマンズィーニの考えに多く影響を受けていると思います。デザインはビジネスにも非ビジネスにも貢献するが、できるだけ対象とデザインの関係をwithで語りたいでしょう。デザインfor ビジネスとの位置関係に収斂されて、デザインが矮小化するのを避けたい、と。

つまり、デザインには強い思入れがあります。アレッサンドロは「デザインは常にDESIGNと大文字で書きたい」と話します。何も20世紀後半のイタリアモダンデザインの栄光を追憶したいためでなく、その時代に強く力を発揮したデザイン文化に信頼と期待をおくからです。

イタリア語の「企てる」、progettare という動詞はラテン語の「前に投げ出す」に由来します。机上の空論ではなく、実際的に何かを前に進めるマインドへの拘りがここには出ており、cultura di progetto (プロジェクト文化)がデザイン文化という表現の源です。この具体例は、林さんも読んでいただいた以下にあります。

特に前世紀、インダストリアルデザインの学科が国立大学になく、多くは建築学科の卒業生がインダストリアルデザインやプロダクトデザインをカバーしていた点に、イタリアデザインの特徴があります(私立の専門学校はありましたが、その卒業生よりも、公立大学の建築学科の卒業生が世の中のデザインをリードしていました)。

人を中心にその周辺におく家具、建築空間、または建築物の周辺までを視野に入れる人が椅子をデザインするのと、工場で量産されカタログに入る椅子をデザインするのでは、自ずとマインドセットが違います。左側が後者のデザインの立場に多くあり、右側が前者による立場になります。

2つの三角形

クリッペンドルフが『意味論的転回』で主張するように、要するに人間中心というのは、ある人の人生で探る風景の全体をなるべく見ようとすることであって、決して「この椅子が座りやすいとよい」願う存在だけに集約された人間であってはいけない、との視座の転換が望まれるのです。

これが大前提でマンズィーニやベルガンティが議論していると認識すると、リーダーシップとケイパビリティアプローチの関係も見えてくるでしょう。そしてデザイン文化についていえば、デザイン文化とは何か?のディスコースが成立しているとき、「そこにはデザイン文化がある」と言えるかどうかを議論できる、と考えています。

スポーツに関しては、林さんが貼っているリンク先をちゃんと読んでから書きます。とりあえず。

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