【映画感想】傲慢と善良【初見】
こんにちは。だれもが抱くであろう深淵、
「傲慢」と「善良」と、日辻です。
そう……「わたし」という存在も、深淵が巡る輪の一部なのでしょう。
■映画「傲慢と善良」を見てきました。
※ネタバレ記事です
■原作は未読ではありましたが……
ベストセラー恋愛ミステリー小説が原作の「傲慢と善良」
「恋人が失踪する」+「ミステリー」に絡んでくる「恋愛」は
個人的には、どんな展開になるのかな? と気になりました。
まず、映画の前に原作を拝読するか迷ったのですが
原作を未読のうえで浴びる映画にも「栄養」があるので
今回は、映画から視聴することにしました。
トレイラーを見る感じ、ミステリーと
銘打っただけの不穏さは感じ取ることができますよね。
視聴後のいまは「原作読もうかな…?」
それとも「映画のままの気持ちでいたほうがいいかな?」
という相反するふたつの気持ちで迷っています。
その感覚から感想を連ねると、書ききれる自信はないのですが
多分これ、一周じゃ飲みこみきれない映画なんです。
多分、とても賛否両論があるんだろうな。
刺さる人刺さらない人、きれいにふたつに分かれるんだろうな。
これを書いている今も、自分が「どちら」に属しているかわからない。
この映画は面白かったか? 考えさせられたか?
刺さったか? 刺さらなかったか? 誰かに話をしたいか?
原作を読むべきか? 読まないで、このままそっとしておくべきか?
ヒトとヒトを隔てる壁はなにか? 縁とはなにか? 糸とはなにか?
「わたしは今、何に苦しめられているのか?」
気持ちの整理をつけるという意味でも、
とりあえずレビューを書いてみようと思いました。
この記事を書いている現在も、傲慢と善良のことを
そして架と真実のことを考えています。
■「傲慢」な架と「善良」な真実
高スペックで選ぶ立場の「傲慢」な架。
いつも控えめで儚い笑顔を浮かべる「善良」な真実。
あらすじではこのように紹介されているけど、個人的には最終的に
「善良」サイドと「傲慢」サイドが逆転してしまったように感じます。
ところで人間って、とても難儀な生き物で
「うれしい」よりも「嫌な記憶」が強く残る性質があるんですよね。
脳の記憶を司る海馬の部分がどうのこうの……
つまり目に見えてわかりやすい「傲慢」サイドにくらべて
「善良」サイドの主張が薄く感じてしまうと言いたいのかな。
原作が500ページ越えとのことで
尺の都合とか大人の事情、もろもろな理由で構成された物語の中、
多少は「観客に解釈を委ねる部分もあるのかな」と思いました。
「傲慢」と「善良」、この世に生きる全ての人が平等に持っているであろう二面性に訴えかける「共感」……
「行間を読む」という楽しみも提供しているのかな。
映画では「傲慢」の主張が強くて記憶に残るのだけど
真実が持っているとされる「善良」の主張が薄くて
「真実が…"善良"……?」と首をかしげる場面が多々ありました。
カフェの隣に座ったおばあさまをフォローしたから「善良」?
招かれたパーティの手伝いを申し出たから「善良」?
子どものリボンを結んであげようとしたから「善良」?
白いゼラニウムの花に霧吹きかけてるから「善良」?
(公式サイトのあらすじに書かれていた通り)
親の敷いたレールを歩むから "善良" ??
「善良」とは なにか?
架がいくら「彼女は善良なんだ!」と主張しても
仲間内に「え~?」って笑われてしまうのは当然の反応かなぁって…
(わたしの感覚も、もしかしたらソッチ寄りで
なるほど、これが「私の中の傲慢」…と思うなどしました)
架が真実に押し付けた「善良」の鎧が、彼女を苦しめている……
「善良」の鎧の中身を見てほしいという欲望、
わたしはどちらかというと「傲慢」が「真実」のように思えました。
わたしのバイアスがかかった考えによる「善良」は……
「内面からにじみ出る光」それか「演じ切る闇」だと思っているので
(※個人の偏った宗教観による意見です)
真実が、周りから押し付けられている「善良」には
不愉快と言えるほどの違和感しかありませんでした。
なら「架しか知らない、真実の「善良」とは?」と考えたときに
やっぱり問題のこのシーンだと思うんですよね~
この問題のシーン。
きっとレビューを書いてるひとたちがみんな触れる場面であるでしょう。
それくらい強烈なワンシーンで、
この場面だけで大抵の状況を説明できるくらい逸脱としていますよね。
小さな箱を出されて「開けてみて?」と囁く架。
開けてみると 中身は、まさかのネックレスで
観客側のわたしも「エッ…………!?」となってしまった
「指輪じゃないんかーい!!!」と突っ込んだひとが何人いたことか?
(でも世の中には「プロポーズネックレス」という概念もあってだな…?)
(考え方によっては間違ってはいない、だけどな??)
(物事には、わかりやすさ、わかりにくさ、の2種類があってだな?)
真実は一瞬固まる、数秒間のフリーズ。
でも「ありがとう、大切にするね」とほほ笑んでくれる。
その笑顔を見て、観客側のわたしですら「あ、いいんだこれで…」とホッとしたので、それ以上の安心を架は真実から受け取った事でしょう。
(奈緒さんの演技が、上手すぎるよ~!!)
なるほど、これが架が求めた「善良」……ね?
これが真実の「善良」な一面を、
より魅力的に演出したシーンだったと思います。
■真実のついた小さな小さな嘘
本編で大問題となる「真実の嘘」がありますよね。
あの嘘、本当に人それぞれだと思うんですけど
まるで小さな子供がつくような可愛らしい嘘なんですよね。
少なくとも私はそう感じました。
(彼女にそんな嘘をつかせてしまった、
架くんサイドにも問題あると思うけどな~!?)
わたしのなかで「演じ切る」ほうの「善良」という条件に
「上手に嘘がつけること」という考えがあって
(※個人の偏った宗教観による意見です)
すぐバレるような嘘をついてしまった真実は
やっぱり「傲慢」サイドの人間のように思えました。
そんな小さな嘘が、わりと取り返しのつかないくらい大きく燃え上がって
過去のお見合い相手とか、父母姉とか、まわりを巻き込んで
勝手に過去を発掘されてしまった真実には、
正直、同情する気持ちもありました。でも……
「子どもがついたような小さな嘘でも
大人なんだから、責任が伴うのはしかたないよね」
途方もなく残酷な、リアリティのある現実。
映画というファンタジーな作り話の上で、
なぜこんな現実を突きつけられているのか?
だからこそ共感を呼んで、話題作になるのか?
色々な視点から学びを得られたと思います。
■「ピンとこない」の正体やら「欲しいもの」やら……
映画で度々出てくる「点数」やら「欲しいもの」やら
ヒトと接するうえで感じる「ピンとこない」という概念……
「ピンとこない」の正体は「自分につけている値段」の話。
正直、このあたりの解釈がわたしのなかでまだ消化できていなくて
この感覚こそが 俗にいう
「ピンとこない」と呼べる「傲慢」の正体ってこと…?
ここがいちばん、映画の中で難しい話をしていました。
本当に原作未読の映画初見だとすごくすごくむずかしい問題提起で、
いまでも私が言ってることって的を射ているのかがわからないんですけど。
(もともと映画の物語紹介の時点で「婚活」と「婚約者の失踪」という言葉で説明されているから「架がそもそも結婚に乗り気じゃない」という側面を読み取るのに苦労しました)
架はたしかに「ほしいもの」がはっきりとしてなくて
ネックレス渡したり、友達と遊び歩いたりで、結婚を視野に入れた交際をしていなかったように思えるけど……なんで「婚活」やってるのって疑問がまずはじめにあるのかな。
結局、架が欲しかったものって、元カノがいなくなってしまった穴を埋めるための愛で、真実と付き合った時点で目的は果たされているから「その先」がない……という議題なのかな。
もっと厳密に言えば、架が欲しかったものは「さみしさを埋めてくれる彼女」に更に条件を重ねて「結婚をしなくてもそばにいてくれる(元カノとは違う女)」だから、婚活アプリを使って彼女を探しているという行為が非常に矛盾していて傲慢で不誠実……って指摘、ってことだよね?(多分?)
ネックレスもそうだし、ストーカー疑惑で彼女の命にかかわるかもしれないという緊急事態を踏まえても「結婚したい度70%」までしか加点されない時点で「架はそもそも結婚に乗り気じゃない」ってことなんだよね……?
でも結婚したい気持ち=愛の重さではない、って架は考えていて、
でも真実は、結婚を切り出されないということは…という不信感があって
外野から見てる架の友達たちが「おまえらなんなの?」的な口の出し方をしてくる……ってことよね?
それはお互いが「欲しいもの」をはっきりさせないからこそ起きたすれ違いで、だから、ここまで大量の人間を巻き込んでこじらせた大騒動になっているんだよという話を…?している…?(よね?)
架が言うように、婚活は就活に似ている……かもしれないけれど。
それも突き詰めれば「人」と「人」が繋ぐ人間関係のほんの一部分であって、婚活に当てはめなくても、たとえ話ができるはずで……
それは友人関係であったり、インターネットの知り合いだったり…
学校の先生だったり、ご近所さんだったり、仕事先のひとだったり…
偶然と偶然が重なって築き上げる人間関係に「ピンとくる」とか「こない」とか……それはなんだろう、とても難しい哲学ですね…?
いや、本当に むずかしいことを言っていらっしゃる!
損得勘定とか、世間体とか、むずかしいことを全部空っぽにして
「いや外野がうるさいんだわ、わたしはこの人が好きなんだ!」という
猪突猛進で厚顔無恥な愛が「ピンときた」という
事故ともいえるような運命的な直感だと思っているので……
値段がどうのとか、価値がどうの自己愛がとか言われても
「ちょっと待ってください、人を好きになるのにそこまで考えてないです」の気持ちが先行した後に「ああこれ結婚とか婚活のオトナな話だった、好きとか嫌いとかそういう話しじゃな……で、なんの話だったっけ???」
これを書いている今でも、ちょっと混乱しています。
小難しい話ばっかりで頭が「?????」になっている中でも
「真実さんが選んだあなたに会ってみたかった、
彼女が自分につけた値段を知りたかったから」
的な小野里所長のセリフが、妙に印象に残ったのを覚えています。
■(※個人の宗教観における)わたしのなかの「善良」とは
後述しますけど、改めて考えてみてもわたしは
「善良」が架、「傲慢」が真実 で表現されているように思います。
何度も書いたように傲慢と善良は、世に生きる全ての人間が平等に持ち合わせている概念なので、一言で「架が悪い!」とか「真実が悪い!」と善悪をはっきりと切り捨てたいわけじゃないんです。
個人的に……愛とか、たとえるなら人に向ける花束とか……
世間一般における「善良」って、鋭い刃物のような一面も持っていて
見方によっては暴力的な側面も持っていると思うんです。
真実の些細な嘘をまっすぐに信じる素直さ、
真実の良さを友達に上手にプレゼンできない
「結婚したい度70%」って答えちゃう正直さ。
そういうのをひっくるめて「純朴」と呼べるなら
架の善良性の刃が、真実を傷つけたのかもしれません。
架も、真実の母親も、架の友達でさえも
「100点」に釣りあう「善良」を真実に求めた。
それってひどく暴力的な愛だと言えませんか?
そうだね。「善良」な自分を演じるのは疲れたよね。
子どもがつくような小さな嘘……「姑息」と呼ばれる手段を使ってしまった「傲慢」な自分でも、愛してほしかったよね。
「100点」じゃないと愛されない理不尽からドロップアウトして
逃げ出したくなるような気持ちも、わからんでもないよ。
子どもだからね。でも、それは大人だから許されないんだよね。
ほんっと世の中生きづらいよね~!? ね、真実ちゃん!
■糸電話?それともディスコミュニケーション?
いったいだれから言い出した?
伝言ゲームのように伝わってしまった「70点」の愛。
架本人から聞いたわけでもない、又聞きの情報で
失踪してしまう真実ちゃんに共感ができるかというと
正直、それは真実にしかわからない衝動だなって思います。
わたしならこうする!この場合はこうしたほうがいい!とか
外野からワイワイガヤガヤいうのって簡単なんですよね。
まさしくレビューを書いている私も、
真実から見たらうるさいだけのワイガヤ勢でしかないでしょう。
でもほんと、本人の立場になってみないとわからないとしか言えない。
わたしは70点なのか? 答えが欲しくて欲しくて、
じゃあ答え合わせできるのか? そこまで戦えるのか?
本当に答えが欲しいのか?「夢の中にいたいんじゃないか?」
「答えが欲しいから戦う」って 本当に本当に、大変なんだよ。
「やめたほうがいいよ」も「突き進むべきだよ」も
わたしから真実に、簡単に言える事じゃないんです。
自分は70点なのか? 100点じゃないから愛されないのか?
「そんなの真実から架に確認しなよ!」と突っ込むのも、
もしかしたら、酷な話かもしれないよねぇ…
答えを知りたい、だからといって「本当に知る」って怖くないですか?
少なくとも、わたしは怖いです。
とても怖い。
■映画の後半はオリジナル展開らしい?
傲慢と善良の後半、真実が失踪してからのお話し。
ここまで架視点、真実視点、架視点、真実視点を交互に繰り返してきて
上手に観客を物語に巻き込む演出を重ねてきたなと思います。
ストーリーを運ぶ過程で、
ここまで観客の感情をスクリーンの中に連れ込んだ手腕と言いますか……
物語の過程で、架と真実はほとんど交流してないはずなんだけど
なんだか二人がつながってる気がするのが不思議な感覚でした。
災害ボランティアリーダーの高橋くん。
真実を居候として受け入れて優しく支えてくれる西田ママさん、
真実自身は「西澤真実」と架の苗字を名乗って偽名を使うという……
なんていうのかな……「善良」の鎧を脱ぎ捨てた振る舞いが「ただ者じゃないな…」という修羅をくぐりぬけてきた猛者のソレなんですよね。
でもそれくらいのほうが、なんだかうまくいってしまうという……
「傲慢」と「善良」の皮肉が利いているといえばいいのかな……
高橋耕太郎くんは、それこそ型にはめた「善良」だったよね。
耕太郎は変わっていく真実を間近で見ていて、
好きになって、距離を丁寧に詰めようとしていた。
でもそれも結局は「ピンとこない」という概念に破れてしまったのかな。
真実が走ってきて、耕太郎とは一緒にいられないと告げて
耕太郎は真実を引き止めるどころか、
架を追いかけるための車の鍵まで渡してくれた。
このシーンがね、その、
あまりにも皮肉~~~!!!!!って
頭を抱えてしまったシーンではありましたね……
耕太郎やさしい♡ って話じゃないんだよコレ。
「正直者はバカを見る」的な、露骨な「善良」サイドの敗北であって
真実自身が、周囲から嫌になるくらい押し付けられた「善良」の鎧であって、真実をうつす鏡そのものなんですよね。
真実を苦しめた「善良」が
ヒトの形をしているのが「高橋耕太郎」……
これが……「傲慢と善良」……
これが「傲慢と善良」……!!!!
ここにいたるまで、まさかの7000字越えという……
ちゃんとした感想が書けているかどうかはわからないけれど
「なんか、スゲーもの見ちゃったなぁ……」
そんな気持ちになったよってことだけでも
読んでくださった皆様に伝わればいいなぁ、と思います
■エンドロール
架と真実の「傲慢と善良」そして
2人の物語を通して見えた「わたしのなか」の深淵。
わたしのなかに渦巻く「傲慢」と「善良」
エンドロールで流れた主題歌の「糸電話」は
まるで傷だらけの心に、優しく寄り添ってくれるようでした。
映画館という 世界から隔離された「劇場」のなかで
孤独に迷う心に「糸」が優しく触れる……
今後、ここじゃないどこか遠くに旅立つことがあっても
人と人を繋ぐ糸……「糸電話」という曲だけは
どこまでもついてきてくれるんだなぁ、なんて……
そんな心強さと、不思議な錯覚とともに
わたしの「傲慢と善良」は、幕を下ろしました。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。