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臨床とことば

私は、臨床と言う言葉が好きだ。

臨床とは「床に臨む」と書く。医療業界に使われるイメージがあるが、教育にも用いられる。

私の中では、
・実践家
・現場で生きる人
ようなイメージがある。

一生現役、一生青春。できれば、私もそんな生涯を送りたいと願っている。

そんな臨床に関わる本を最近読んだので紹介したい。

臨床心理学者の河合隼雄さんと、哲学者の鷲田清一さんの対談が中心の一冊だ。

大切にしたいな思った文章を紹介しながら、私の経験や考えと照らし合わせていくので、よければお付き合いいただきたい。

臨床の知とは

まず、「臨床の知」とは何かという話がとても好きだ。

Wikipediaによれば、臨床の知とは

普遍主義、論理主義、客観主義からなる「科学の知」に対して、コスモロジー(場所や空間を無性格で均質的な広がりとして捉えるのではなく、一つ一つが有機的な秩序を持ち、意味を持った領界と見なすこと)、シンボリズム(物事には多くの側面と意味があるのを自覚的に捉え、表現すること)、パフォーマンス(わが身に相手や自己を取り巻く環境の働きかけを受けつつ行為し行動すること)を構成原理とするアンチテーゼである。

この「臨床の知」について、お二人の言葉をお借りると…

「ああ、こんなこともあった」とか、「この間はこうだったのに」とか、辻褄の合わないところを、地ベタをベターッと這うような思考法。方法論ではない。

ということ。その人、その時間、その空間でなされたことを振り返っていくことが臨床であり、その経験が蓄積されていくことを「臨床の知」というのか。


地ベタをベターッと這うようなという言葉もいい。
泥臭く
基本から
何回も
諦めない
続けること
そんなキーワードが隠されている気がしてならない。

ちょっと言葉になりにくいほうのも含めて臨床の知があるんですね。ただ、言語化されないほうも、何とか言語化しようと思って、僕らも苦労している。それはもちろん、あとから遡ってやられるわけで、最中には分からない。

そうそう。その瞬間の関わり方を言葉に表すのは、とても難しい。なぜそうしたか説明できない時だってある。

分からないけれども、勘はある。その時の「自分はうまくいっている」というものを支えてくれるものは、いろんな支えがあるわけです。その支えをたくさん持っていないと、理屈だけではだめですね。

そうなん?
理屈じゃあかんの?
むしろ勘って疑った方がいいんじゃないの?

と私は思ったのだが。


ただ、子どもと関わる時に、理屈が頭によぎることなんかほとんどない。理屈が体に染み込んでいるくらいでないと、無意識下くらいでないと、その理屈は使えないしあてにならない。理屈は大切なのだけれど、理屈に助けられることもあるのだけれど。

しかし、理屈が強く作用するが故に失敗することもある。だから、理屈だけではいけないのだ。出会いによって蓄積された経験からくる勘が必要なのだ。

思い出してみれば、その勘を私はとてもあてにしている。

「今は引いた方がいい。」
「ここでグッと押した方が成長に繋がる。」
「いや、今はじっくり話を聴こう。」
「バッサリ行く方がいい。」

などだ。全てを理屈で判断しているわけではない。そして、この勘もよく間違う。笑

つまり、臨床の知というのは、理屈・知識なども含めた多くの出会いによって、その時になされた会話や出来事を通して得られた経験によって研ぎ澄まされた「直感」「勘」「判断力」というのが私の落とし所である。


言葉を掴んでしまう

この感覚、皆さんも思い当たるのではないだろうか。

生徒指導の場面なんか特にそうだ。こちらの予想した筋道を想定して、その通りのキーワードが出てくれば「ほら来た!」と言わんばかりに突き詰める。
キーワードが出なければ、こちらからの誘導尋問?のような形で子どもの「言葉を掴みにいく」ことだってある。

授業だってそれに近いのではないだろうか。教師が「どんな意見でもいいから、話してみよう。」と言いながら、欲しいキーワードを待ち、そこだけ大きく広げるなんでザラだ。

でも、そうじゃないんだ。言葉は、子どもから出てくるものなんだ。
大人の期待や都合で言葉を掴むのではない。子どもが自分と向き合う上で、ポロリと溢れるような、そんな言葉の方が自分らしい。そう思うと、改めて「教師はファシリテーター」なんやなと思う。

語りの手前で

自分がどんなことを言おうとも、そのままそれを受け入れてもらえるという確信、さらには語り出したことで発生してしまうかもしれない様々の問題にも最後まで付き合ってもらえるという確信がなければ、人は自分のもつれた想いについて語り出さないものだ。

つい「話したいことがあれば言ってね。」と軽々しく口にしてしまう。
でも、そうじゃない。教師自身が開かれた態度で、そして、最後まで付き合う態度が相手に感じられてこそ、その苦しい思いが言葉となる。その時間が教師には確保されていないことが悩ましいのだけれど。


横着な新米看護師の話

これは、偶然から生まれた鷲田氏のエピソードだ。

入院したことがあるんですが、同じ部屋に80歳前後の食事もほとんど入らんような、意識があるのかないのか分からないようなおじいさんがいらっしゃった。それをいいことに、新米の横着な看護師さんが、お昼がすむと片付けてカーテンを閉めてお昼寝させてあげるフリをして、その患者さんの脚の上にグオーッともたれかかって昼寝してるんですよ。
でもね、その子が寝ている間だけ、おじいさんは目をバチっと開けるようになったんです。それも横目で廊下を見ている。それで、師長さんなんかが来たら、その看護師さんをふっと触ってやるんですよ。たぶん「この子は俺がちゃんと見てやらな、えらいことになる。」とおじいさんは関心を持ち始めたんですね。

「生きる」よりも「生かされてる」という感覚が強かったであろうおじいさんに、自分の存在意義が生まれた瞬間だ。

ひょっとしたら、生きる意味・価値みたいなものって「自己実現」よりも「他者貢献」の方が大きいのかもしれない。私も、どことなく「誰かのために何かしている自分が好き」だったりする。
でも、自己実現を進めた先に他者貢献があってもいいし、他者貢献を進めた先に自己実現があってもいいわけで。

他人に関心を持ってもらえるだけというのは、むしろ、ある時には支えてくれるけれども、ある時には人を受け身にしてしまう。それに対して、自分が外に関心を持つと生きる活力が湧いてくる。

子どもに関心を持つということは教師にとって最低条件だ。関心を持たない教師など子どもとの関係性は崩れ信頼を失い、それこそ学級が崩壊する。

しかし、子ども達に主体性を持たせたいのであれば、関心の縛りを解き放ち子供が自分の外に関心を向けることも必要だ。学習でもいい、休み時間でもいい、何かしらの活動を通して「誰かの支えになること」は、生きる活力が湧く。それは、私の経験上とても理解できる。

友達関係が苦手な子が算数を教えてヒーローになったこと
大人しい子が漫才で友達を笑わせたこと
怪我をした友達をみんなで支えたこと

そう思うと、学校は誰かの支えになることの宝庫だ。

そして、

ケアにおける距離というのは、ちゃんと距離をもっていろいろ見守ってあげるケアも大事なんですけど、逆に相手の関心をこっちに向けるような、ちょっとドジなところとか抜けたところとか、ケアする側にある弱さが見えた方が無防備になったり、逆に関心を引き寄せるというようなこともある。

ここで、私の経験と本の内容が重なった。この瞬間ってたまらなく嬉しい。

隙を見せる、弱さを開く、ということは誰かに支えられるチャンスであり、

つまりは

自分の外に関心を向けた誰かの「支えるチャンス」なのだ。だからこそ、教師自身も弱さを開く必要があり、子ども同士も弱さを開き、助けたり助けてもらったりする関係性を構築することが生きる活力に繋がるんじゃないか。


終わりに


最近、how-toの本を読むことも多かったが、哲学書というか「自分がどういう教師人生を歩むか」について考えるような本は、改めて自分を深く掘り下げてくれる。

師の言葉をお借りすると

「やり方じゃない。在り方なんだ。」


教師として、人として、どう在るのか。

まだまだ未熟。失敗ばかり。それでいい。

どう在るのか。どう在りたいのか。

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