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『嫉妬/事件』の読了/感想
もちろん一年のはじめにはハヤカワepi文庫を読む(9年連続9回目)。
ハヤカワepi文庫は、すぐれた文芸の発信源(epicentre)です。
ずっと過去の傷跡をさらけ出す独白を読むのはつらいしもうやめてと思う半面、ずっと読んでいたいとも思う。文字にしなければならないならずっと書き続けていい。それで楽になれるのかはわからないにせよ。書かねばならないから書くのだろう。一気にファンになった。
過去を回想して日記のようにここに書かれているのは、たしかに感情ではある。
でもどこか冷たさを感じる。
過ぎたことを、若き日の出来事を冷めた目で綴っているように感じるけれど、それは心を押し殺しているからではないか。
淡々と書かれている。
死んだ目をして。
かつて生きていた自分を書いている。
その絶望、苦しみは川の底に堆積している。
穏やかに流れている川を外から覗いても平凡でただの川でしかない。
誰にも言えない苦しみが泥となり見えない川底にたまっていく。
うず高く積み重なって川の水がせき止められ氾濫する前に、この本は書かれている。決して洪水が襲い来る文章ではない。
ゆっくりと川底をさらって、その泥を読者に見せつける。
それから目を背けてはならない。
それが彼女の人生なのだから。
「俺は関係ないし」「私はそうならなくてよかった」そう思えるあなたこそがこんな運命に導いたのだ。この小説のような文章をアニー・エルノーは書かなければならなくなったのだ。
きっと書くことは救いだっただろうと同時に苦しみだっただろう。
見たくもない泥と向き合わなければならなかったのだから。
書かなくても良い人生を送れたらどんなに良かっただろうか。
この本に書かれているすべてが完全なフィクションだったらどんなに良かっただろうか。
これは60年代のフランスで起こった出来事なのだろう。でも誰にでも『嫉妬』は起こりえるし『事件』も起こりえる。
読者にとっては痛々しいだろう。……お前もだぞ。
嫉妬したことないのか? そんなやついるのか? その程度の浅い川なのか?
そうやって馬鹿にされたくなければきちんと泥をさらって見てみるがいい。
妊娠や中絶という言葉を口にするのがためらわれる。そういう場面がある。違法だったから言うのも憚られるというのもあるだろうが、それ以前に目を背けている。
言ってはいけない言葉。悪い言葉。
「あのあれ」「あれがこない」そうやってはっきり言わない。言えない。
手帳には”それ”とか”例のもの”とか書かれていて、”妊娠”は一度しか出てこない。
N医師もわたしも、中絶という言葉は一度も口にしなかった。それは、言語表現のなかに場所を占めていない言葉だった。
目を背けるな。
中絶は悪だから禁じられているのか、禁じられているから悪なのか、決定することはできないのだ。世間の人は法律に従って判断するのであって、法律を判断するのではない。
中絶が違法だったフランスとかいうやばい国の話。……ではない。単にそれだけではない。
お前の国はどうだ。経口避妊薬が処方箋なしで買える国はどこだ?
ハヤカワepi文庫は、すぐれた文芸の発信源(epicentre)です。
ところで、『シェルブールの雨傘』が本作の中で言及されているので、本書を読む前に観たほうが理解が深まるかもしれない。
僕はたまたま昨年末に『シェルブールの雨傘』を観た。そして本書を読んだら言及されていてこんな偶然に恐怖を覚える。きっと違う作品を観ていたら、違う作品が言及されていたのだろう。それはまた来年の話。
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