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Touch your heart

今朝、パートナーと話してて『ふれあうこと』により相手から伝わる情報の量は、思っている以上に膨大なのではないか?という話になりました

例えば、横浜の中華街の近くに住んでいる、あまり知られてないのですが知る人ぞ知る太極拳の達人の老師がいらっしゃるのですが、その方と推手という組手の練習で手をあわせると

「あぁ、今日はウチに来る前に○○飯店に寄って炒飯を食べて、そのあと中華食材の○○に寄ってから来たね。」

と全て分かってしまう。
こういう人に嘘はつけません。

老師によると『聴勁』という相手の力の流れを読む訓練を重ねるうちに、だんだん他の色々なことも分かるようになるそうです。

相手に感情を伝えるとき、視覚(相手の表情)や聴覚(言葉)よりも体性感覚(触覚、嗅覚、味覚のより言語化しにくい体の感覚)が捉えていることのほうが、より多いのではないかと私は考えてます。

それこそ言葉にならない情報。

私の友人で、彼女に別れ話をしたら、

「本当に悲しいわ。
胸が悲しみで一杯。
さわってみて」

と言われて彼女の胸に手を当てたら、ズドーンと彼女の悲しみの感情が伝わって、1ヶ月くらい立ち直れなくなったヤツがいます(笑)

ネットでの文字だけのやり取りで、相手に誤解されたり、怒らせたりすることが多いのは、この辺りに
~テキストの視覚情報のみの情報の少なさ~
~豊潤な体性感覚情報による伝達の欠如~
も原因があると思います。

パソコン通信の黎明期には、
「ネットでのやり取りは感情の沸点が低いので気を付けよう」
とかいう言葉もきいた覚えがあるのですが、今はあまりにもネットが日常に浸透しすぎて、そういう意識も芽生えない環境になってきているのかな、という感もあります。

『経験するということは、ふれて感じることだ。
多くの人が本当の意味でふれることも、ふれられることもなく一生を終える。
彼らは喜びや涙、幸福や悲しみを感じる想像力は持っているが、本当に経験しているわけではない。
だから真の生命と一体になることはできない』

これは、ヘェメヨスツ・ストームという人が書いたセブンアローズという本のなかの一節です。

この本がアメリカで出版されたのは1972年。

現代からみると、まだだいぶ牧歌的といってもよい時代だと思いますが、その時代でさえ人々の心の分断は、

『多くの人が本当の意味でふれることも、ふれられることもなく一生を終える』

と書かれるまでになっていたのですから、現代の状況たるや、推してしるべし、です。

ネイティブ・アメリカンの教えでは、この地上で、全ての人が平等に持っているたった1つのものは、『孤独』です。

大金持ちも貧しい人も、美しい人も醜い人も全ての人は等しく孤独です。

愛も憎しみも、むさぼりも寛容も全て我々の孤独な心から生まれるのです。

これは言い方を変えると、
「私とあなたが、それぞれ違う方向から同じ物を見ると、同じようには見えない。
更に私とあなたで、その物に対する考えかたや感じかたが違えば、更に違ったふうに見える」
ということです。

私とあなたが違う肉体、違う魂で有る限り、同じ見方をすることは不可能です。

私たちが、その孤独から抜け出せる唯一の道が、
『ふれること』です。

これは具体的な身体のタッチだけでなく、ハートを開いて心が触れあうこと。
頭の観念を消して、先入観無しで観ること。

そうすれば、どんな考えも、どんな人も、どんな小さな花でも私たち自身を映し出す鏡になります。

これが聖なる輪~メディスン・ホイールの教えですが、今の時代、人に伝えるのもなかなか難しい事です。

先ずは『ふれること』。

この事をパートナーと二人、世の中に広める方法を日々、試行錯誤しながら考えています。

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