ネーティ・ネーティ・アートマン
前回書いた垂直の関係性について、
これを阻害する要因がいくつか有ります。
その中の1つが垂直インプラントですが、これを直接解消する手段は、まだハッキリ分かっていません。
私が知っている限りですが。。。
いくつかのスピリチュアルなグループが垂直インプラントの存在に気づいて、それを解消しようと試みましたがうまくいって無いように思います。
チベットに起源を持つ、あるスピリチュアルなヒーリングのグループがこれの存在に気づき、特殊なマントラと手技を使って取り除く試みをしていましたが、グループ内でこれの存在(グループ内ではBEEP と呼んでました)そのものを疑う動きがあり、そのため最終的にこのグループは分裂してしまいました。
私は、その一部始終を見ていましたが、やはり今の人間の認識力や識別力には限界があります。。。
まず垂直インプラントの存在を証明しないかぎり地上では、その解消は難しいのかも知れません。
もう1つ、古来から瞑想者に知られる要因に、エゴ(自我)の存在があります。
心が開いていくことが心の成長には必要ですが、他人を受け入れて、心が傷ついた経験は誰にでもあると思います。
傷ついた心は固く凝縮して
「二度と開くものか!」
と扉を閉ざしてしまいます。
自分と他人の違いが分かるところから自意識は生まれますが、その結果見たく無いものまで見えてしまいます。
知りたくないことまで知ってしまいます。
あの人の方がキレイ
あの人の方が頭がイイ
あの人の方がお金持ち
。。。
「オレナンカドウセ。。。」
エゴは傷つきやすい自分を守るために自身を固い殻で被いつくします。
それでなくても、エゴ(自我)は自分を超えたもの、自分より上にあるものがキライです。
「大人ぶるない。瞑想ときやがる」
~~坂口安吾『不良少年とキリスト』
自分の存在を遥かに超えた、絶対の宇宙意識の存在など、エゴは認めたくはないのです。
エゴを超えて行くために、瞑想者に伝わる言葉があります。
それが、今回のタイトル
『ネーティ・ネーティ・アートマン』
です。
ネーティは「否」、アートマンは「真我」です。
「否、否、これは真我では無い」
私は肉体?
。。。No
私は名前?
。。。No
私は男(女)?
。。。No
私は肩書き?
。。。No
私は仕事?
。。。No
エゴは悪いものではありません。
この世に生きていくために必要があって身につけてきたものです。
けど、それは服と同じようなものです。
身につけている服が私自身では無いように、エゴが私自身では無いのです。
以前、ヴィシュターチャクラが開き始めたときに瞑想者が感じる「地獄の季節」について書きましたが、
その苦しみは、自我(エゴ)が分解される苦しみとも言えます。
「今まで当たり前だと思っていたことがそうじゃなかった」
と、子供から大人になるときに誰もが味わった苦い味をもう一度経験するのです。
自我(エゴ)が死に、真我(アートマン)が誕生するとき、
霊的参入=イニシェーションの門が開くときです。