チャクラと時代背景
小学生の頃から瞑想をしていたので、仏像や、ヒンドゥ教の神像、エジプトの像のポーズには昔から興味がありました。
特に仏像は、タイや中国と日本で足の組み方が違ってたりして面白いのですが、これら仏像を『瞑想をしている状態』として見ると国や時代によって意識の状態が違って見えるのが分かります。
タイの仏像は、微笑みを浮かべ胸が大きく開いて見えます。
ハートのチャクラ、アナハタチャクラが開いている状態のような感じがします。
チベットの仏像
こちらも胸を開き、微笑みを浮かべ顔をやや上に反らせてます。
次に日本の仏像
表情は非常に落ち着いて、視線は斜め下のほう。
下腹に重心が集まった体型をしています。
チャクラで言うとマニプラチャクラ、更に下のスワジスターナチャクラ。
下丹田、ハラが充実して見えます。
仏教やヒンドゥ教には瞑想の伝統があるので、これらを今で言うミラーニューロンの効果を用いた瞑想の道具として見るとそれぞれの狙いが違って見えます。
ヒンドゥ教の神像
古代エジプト神像と向き合えば、頭上のソウルスターチャクラを意識せざるを得ません。
昔、ウィーンの美術館のエジプト神像が並ぶ部屋で、誰も居なかったので片っ端から像とアイコンタクトしながら長い時間瞑想したことが有りますが、とても素敵な体験でした。
これらの違いを生み出したのは、それぞれの国と文化、時代、民族性によって集合無意識の焦点となるチャクラが異なっていたからではないでしょうか?
日本の場合で考えると、日本人の精神世界の中心はかつて「ハラ」にあった事は、武士道での最上級の死に方が「切腹」であったこと。
「腹がたつ」「腹に一物」「腹黒い」等のハラにまつわる身体言語の多さ(同じような意味で「キモ」も使います「キモが据わっている」)
腹と表裏の関係にある「腰」も多いです。
「逃げ腰」「腰が引ける」「腰を入れる」etc.
~により、推測できます。
戦前の日本で空前の「ハラ」ブームが起こった事は、あまり知られていないと思います。
肥田春充の「肥田式強健術」、
岡田虎二郎の「岡田式静座法」
藤田霊斎の「調和道丹田呼吸法」
などの健康法、鍛練、精神修養の指導者が「ハラ」「丹田」の重要性を説き、全国で何十万~何百万人もの愛好者がこぞって「ハラ」の鍛練に明け暮れた、という時代があったのです。
学校や会社の研修などの教育現場にも積極的に取り入れられたという記録が残っているので、現代のジョギングやヨガどころではない大ブームだったのでしょう。
その後日本が、世界大戦へ打って出たこと。
泥沼化する戦況にも強硬路線を貫き、神風特攻隊にまで繋がる流れと、戦前の「ハラ」の大ブームは無関係では無いと私は思います。
その後の日本の時代背景と、集合無意識の焦点となるチャクラを私なりに見ると、戦後を経て高度経済成長からバブル崩壊までの日本は、胸のアナハタチャクラの時代、それも敗戦により
「ハラを無くした」
アナハタチャクラの時代だと思います。
家庭の中心は家族の集まるお茶の間のテレビの前。
会社は終身雇用で、終生会社に尽くせばそれなりの幸せが得られた時代。
何故か空虚感が漂っていた時代。
実にサザエさん的な、三丁目の夕日的な幸せの価値観に支えられた昭和の時代は、バブル崩壊を経て終了し、日本は新自由主義、ネオリベラリズムによる過酷な個人の生き残り競走の世界に叩き込まれました。
そして今、「人類みな兄弟」の発想の無意識的な《群れ》のアナハタチャクラ的な世界から、なかば強制的に日本は、個人の目覚め《自意識》に目覚めた《ヴィシュターチャクラ》の時代に入ったと私は思います。
けれど、ヴィシュターチャクラは喉という肉体的に見ると狭き門の中に有ります。
次の段階に上がる、正に首=ネックです。
瞑想者は、このヴィシュターチャクラが開く段階にいたると、上(魂の世界)と下(肉体の世界)に引き裂かれるような地獄の季節を味わいます。
ほとんどの人が、ここを飛ばして1つ上のアジナチャクラ=第三の目の開発に行ってしまうほどです。
けど私達全体として、「一個飛ばして1つ上」を目指すのは、それは無理な話のような気がします。
遅かれ早かれ、一個飛ばして行った人も取り組まなければならないことです。
でないとまた、敗戦により「ハラを無くした」あの時と同じ事を繰り返すことになります。
心は、木が大地に根を張り、上へ上へと伸びてゆくように、天に向かって伸びて行くのが自然だと思います。
内でもなく、外でもなく、上へ!
天に向かって!
それが次の段階へのキーワードだと思います。