僕が悲しくなるのは、正しく不平等だから
例えば、誰か身近な人がが亡くなったとする。
そのときに僕はどんな気持ちになるのだろうか。
いや、本来はどういう気持ちになるべきなのだろうか?
若くして亡くなった方がいると、皆が口を揃えて「まだ若いのに可哀想に」と言う。
しかし、残念な僕はそれには同意しない。
人がいつ死ぬかは定められてはいないし、誰も分からない。僕たちが知っているのは、ただの大規模な統計データであって、それは種としての指標になることはあっても、個人がいつ死ぬのか?という問題にはほとんど関係がないことだと思っている。
個人の死は統計では測れない非常に一回性の強い現象である。
まずその立場をはっきりしておきます。
だから、人が死ぬのが、早いとか遅いとか考えることは、理解はできても、同意はしません。
人の人生は陶器を作る時のように、こねられて練られて、何度も形が変わった後にやがて、固まって、色づき完成するように考えています。死んだ時にその人の人生が揺らぐことのない完成形を成し、それは、あるいは祝いと労いを送る価値のあるようなものであるんじゃないか、と。
あえて地に足をつけたような説明をするとしたら、人がこの世に生まれ社会に生きていくということは、本人がどう思おうと、健康が保証されているわけではなく、むしろ遺伝子的な病気、環境の影響による害悪、事故、事件さまざまなリスクが起きる可能性を受け入れている状態なのであって、それがいつ自分の身に降りかかるかはまさに神のみぞ知ることなのである。だから、早く死ぬということは、いつでも起こりうることなのであり、それは平均値で割り出しても答えの出ない、一回性のイベントなのであります。
だから、誰が、いつまで生きているかなんていうことは、本当は無意味だと感じます。
さらに、続けて、もう一つ。
全ての人に平等で公平であることが求められるこの世の中で、知っている人が死ぬことは悲しく、遠くの国で死ぬ人はそれほど悲しくないのは、人として非常に不公平で、不誠実なこととは思いませんか、と。
先程の例で挙げたように「若くして死ぬ」ことが本当に悲しいことなのであれば、僕たちは今もこの瞬間に死にゆく若き人たちのことを考え、常に悲しさを帯びながら生きているはずである。
だが実際はそうではなく、明らかに自分の関心のある死と関心のない死が存在しているのである。
これは、全く公平な感情ではない。
だから、私が思う誰かが死ぬことの悲しさとは、エゴの塊である。
人は知らず知らずのうちに、想像しうる先の未来に向かって、「期待」を張り巡らせている。つまり、これまでの経験から未来は「このように」なる可能性が高いと考えを持っているわけであります。
そして、その張り巡らされた「期待世界」と目の前にある「現実世界」とが重なる今に立つ私は、常に、その差を評価しているのである。
例えば、この「期待世界」では、人は平均寿命まで生き続ける像が描かれており、人が若くして死ぬことは、まさに期待はずれであるから、認め難く、悲しい。
この「期待世界」を形成したのも、「現実世界」との比較・評価を行うのも、誰の指示でもない、自分が勝手にしていることなのである。
つまり、誰かが死んだ時に感じる悲しさは、あの人がいれば私はこんなことができたのに・・・と思う気持ちに他ならない。
強いて言うと、共感の気持ちもあり、死んだ本人の無念や、身内の悲しさを感じ取り自分まで悲しくなるのは、人間性の豊かさといってもいいでしょう。
だが、死んだ人に感情などないので、それも勝手です。
身内がどう感じているかも勝手な想像だし、身内自身が実際に感じている悲しさそのものもまたエゴであります。
エゴとは言いましたが、エゴってものは本来は善悪を意味する言葉ではなく、その人の中から湧き出るものと言う意味でしかなく、これは人を人たらしめる重要な性質です。
そこだけはきっちり弁明しておきます。
不快感が深まらないうちに結論を話します。
悲しいことがあって、涙を流すのは貴方の勝手な行為である。
でも、その涙は失ったものにどれだけの希望が詰まっていたのかを示すものであります。
誰かが亡くなった時に流す涙は、その人がもし生きていたら、自分に対してどれだけの希望を与えられたのか、はたまた、自分以外の周りの人たちや社会に対してどれだけ貢献することができたのか、あなたがよく知っているから流れるものなのではないでしょうか。
誰かが亡くなったときは、その人の人生で果たしてきたこと、どれだけの希望を与えてきたのかを自信たっぷりに満たされる気持ちを思い出し、亡くなった人への感謝とポジティブな弔いを大いに語り、涙を流しましょう。
勝手に想像していた未来の希望は、もしかすると悔しい気持ちや喪失感を思い出してしまうかもしれないので、胸の中にそっとしまっておいて、そのあとに酒と一緒にぐいっと飲み込んでしまいましょう。
僕が亡くなったそのときは、そうして人生の最期を迎えたことを、労いつつも讃え、もはや祝いのような気持ちで乾杯をしてほしいまで思います。
ふと冷静になって世界にはもっと悲惨な死があるのに、自分はなんでこんな個人的な死の経験に対して不公平に不誠実に涙などを流しているのだろうと考えて一回涙が引っ込んだ後に、振り返り、でもなぁ!、と言ってもう一度最後に流す涙の一滴一滴は本当の弔いなのでしょう。
そんなふうに思っています。