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尾畠さんの記事を読んで

朝、上司に仕事の相談があったのだが、別の部署の人と話をしてしばらく会議室から出てこなかったので、待ちながらラジオ体操第一をやってみた。

子供の頃は(なんやねんこの動き……)とナメていた冒頭の曲げ伸ばしの動きがめちゃくちゃ効く。左の首〜肩部分が引き攣るほどに。
そういえば普段の生活で、手を肩より上に挙げることがほとんどない気がした。これから毎日やろう。

昼休みには、"スーパーボランティア"として話題になった尾畠さんが、今も大分県で活動されているという記事を読んだ。この方の記事を読むと、いつも目頭が熱くなる。

数年前の教員時代、教室の後ろの黒板に「自分が読ませたい記事の拡大コピー」コーナーを作っていた。尾畠さんの活動の記事も何度か貼った。
普段は相当うるさく騒いでいるような生徒も、休み時間などに割と黙って読んでいたのが印象的であった。

ツイッターでは、この人を讃えるつぶやきがたくさん目につく。
「尊い」「まさに生き仏」「相変わらず見返りを求めないのがさすが」……そう、確かに本当に、そうだと思う。でもなんだか、「違う」気もしている。

尾畠さんにカメラを向け、マイクを向けた人も、その後彼と同じ行動をとったりするんだろうか。
カメラとマイクだけ向けた後は、冷房の効いた車に乗り込んで、また別の取材に向かうんだろうか。
とか考える。

一時期、マスコミのしつこい取材態度が批判されていた。「この方の行動をもとに、何か別のものを得ようとする」のは明らかな誤りである。が、なんだかただ讃えるだけ・もてはやすだけ、も「違う」と感じる。

そう感じるなら、どうすべきか?
自分もやるべきだ。自分も同じことをやれば、たぶん一番すっきりする。

でも、——「でもでも」、いつもそう、「それができないだけのたくさんの理由」が浮上する。
自分には自分の日々の勤めがあり、たとえば実際にそういう現場に行ったとして、体力もないし、埃にカビに一部の草に、あれこれのアレルギーのために体調崩すだけかもしれない。そんなやつはいるだけ邪魔だろう。
(それ以前に今はコロナで不用意に動けないが)

「でも〜」「〜けど」「〜だし」の連なりに安心する一方で、いらいらもする。
こういう時の真っ当なアドバイスとしては「自分は自分のできることをやって、きちんと稼いで、税金を納めたり寄付をして、協力すれば良い」と言われそうである。
尾畠さんには尾畠さんの重ねて来られた月日があり、形なき財産があり、人生観がある。
それを全く持ち合わせないのに、この方のように、などというのは傲慢も極まりない。

そんなことをつらつら考えながら、午後の仕事を再開すると意識はそちらに移り、帰宅したら好きに食事を作り、好きなアニメ見て風呂に入って寝る。今日もきっとそうする。沈むのは一日のうち何時間か。
情けないことだ。

だからといって「寄付しよう! それでOK、もやもや解決!」でもない。
できる範囲で寄付とかもそりゃするけど、なんだか情けない、ともやもやしながら日々を送る。

長引く梅雨空のせいかもしれないが、晴れたら晴れたで紫外線アレルギー持ちにはつらい日々が始まるんである。
まこと、人生四苦八苦。

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