「センスの良さ」をどう追究するか
「センスがない」と言われた時の絶望感は、他のどんな非難や叱責よりものすごい。
結論が先にあって、自分のどんな弁解も、今後への意気込みも意味を為さないんじゃないかという気分になる。「センスの良さ」は捉え難いものであるからこそ、「センスがない」ことは、自分の容貌を誹謗された時に感じるような、自分ではどうすることもできないような感覚に陥ってしまうのだ。
でも、果たして本当にそうなんだろうか。
「センスの良さ」を求めて、もがいて、あがくことは無意味なんだろうか。
振り返ってみると、客観的でいて完全な方法論がないものの、いつの間にか人が身に着けていくスキルや能力というのは、たくさんある。
自転車の乗り方、スキーの滑り方、満員電車の中での立ち位置の保ち方…etc。
言葉なんていうのは最たる例で、街で外国語を聞く機会があると、よくあれで意思の疎通が図れるものだと、驚き感心するし、同時に、何気なく日本語を喋る我々も彼らからはきっと同じように見えてるのかと、ため息が出る。
もちろん言語にはたくさんの理論が作られようとしている。それでも、ネイティブである我々は理論を学ぶより先に言語を習得しているし、理論に沿う形で我々が言語を習得しているわけでない事については、理論を学ぶことの難しさが、それを証明している。
「センスの良さ」というのは、きっと何も喋れない赤子が言語を覚えていくのと同じように育まれていくんじゃないかという仮説を立てた。
「センスの良いもの」をたくさん見ること。
憧れること。
真似をすること。
人の真似に、勇気を出してほんの少しアレンジを加えようとしている時、そこに「センスの良さ」の萌芽があるのかもしれない。