Dialogue with Joseph Beuysー社会彫刻と現代のアポリア
◼︎ヨーゼフ・ボイスが唱える「社会彫刻」
ヨーゼフ・ボイスに関しては、『ヨーゼフ・ボイスの足型』という本を読み知っていましたが、なんと都内でボイスの作品が鑑賞できるとのことこと(しかも無料)で、足を運びました。
ボイスの提唱した「社会彫刻」という概念は、先に引用した通り、芸術活動とあらゆる社会活動の境界を線引きしない考え方です。「すべての人間は芸術家である」というボイスの言葉に代表されるように、私たちも芸術家(=社会に彫刻を残す存在)であるということになります。
芸術家というと、ただ絵を描いたり、ものを作ったりというイメージを持つ方もいるかもしれませんが、ボイスの言う「芸術」は少し違います。それがよく現れているのが、1982年のドクメンタ7です。
このドクメンタ7は、簡単に言うと緑化計画です。植えられた樫の木は、成長すれば未来の環境そのものになります。では、この活動が社会活動の意味しかないかというとそうではありません。『ヨーゼフ・ボイスの足型』の中で、若江漢字氏は、死の象徴として設置された玄武石を、ラッシュアワーにおける没個性な人波に例え、『ツァラトゥストラはかく語りき』から「もはや意欲せず、もはや評価せず、もはや想像せず」という一説を引用し、例えています。(p.104)
ただ樫の木を植えるのではなく、このままで本当に良いのか?という現在への問いかけ(玄武石)と未来への平和を願うこと(樫の木を植えること)の両立が、芸術活動と社会活動の両立を意味していると、私は考えています。現にボイスは、「自ら考ええ、自ら決定し、自ら行動する人々を私は芸術家と呼ぶ」と述べています。
行動していても、考えていなければダメ。考えていても、行動していなくてはダメ。考えもしない、決定もしない、行動もしないは芸術家ではないということになります。芸術家=私たちのため、強く解釈すれば、考えも決定も行動もしない人間は人間ではないとも取れるかもしれません。
この考え方は、アーレントの「凡庸な悪」にも近いのかなとも思います。
◼︎Dialogue with Joseph Beuysを見て
さて、ここからは展示の話になります。展示自体はとても良かったです。とりとめのない感想になります。展示をまだ見に行っていない方、これから見たいと思っている方は閲覧をお控えください。
ボイスはこの作品を作った際に、1000時間に一回電球の電池を入れ替えるようにと言っていたそうですが、電球が中に入っているので電池を替えることができませんし、そもそも替える必要がありません。
金色のフレームでガラス張りのオブジェクトのなかに、レモンと電球が入っている。作品だけに注目すると、単調な説明になります。ただ、フレームが反射した光の形、フレームや電球の影が、床や壁に投影され、床と壁の境界、壁と壁の境界そのものも作品の一部となり、複雑な形を浮き上がらせます。
普段私たちが人やものから感じとる「雰囲気」を体現したような作品だと感じました。加えて、「金のフレームの反射や作品の影は、作品そのものなのか?」という問いが浮かびました。この展示は、作品そのものだけが作品というわけではなない。そのものが様々な外的要因(光の当たり方や置かれた場所)によって変化する。ということを訴えているように感じました。
もう一つ、個別に取り上げたい作品が、電車の車内を再現した武田萌花氏の展示です。
座席が4席あり、中はそこそこ暗く、窓を模したモニターには風景が流れていく様子が映されています。音や振動まで再現されており、車内の環境を再現しています。
私は試しに後ろの座席に座ってみました。すると、前の席のポケットのようなところに”Day Tripper”と書いた詩集(?)が入っていました。その冊子の中身が非常によく、ついつい読み入ってしまいました。
ただ読むというだけだったらそこまで印象に残らなかったと思います。しかし、車内という環境を準備することで、冊子を手に取る→読む→考えるという流れをアフォード(環境のさまざまな要素が動物に影響を与え、動物はその環境に適合した行動をとるように)しているのだと感じました。そうすることで、ただ考えを押し付けるのではなく、鑑賞者が主体的に考えるような仕組みになっていました。
武田氏のインタビューには、「普段は意識していなかったことをもう一度見ることで、街の中のあらゆる瞬間、現実にきちんと目を向けられるようになったらいいなと思うんです。そのすごく小さな第一歩こそが、自分の作品が問いかける、ささやかな布石みたいなものだと思っています」と書かれていました。
日常をどれだけ非日常化することができるのか、それはどのように可能なのか?を問う作品であったと思います。”Trip”にはきっとそのような意味が込められてると考えます。
◼︎ボイスからの問いかけ
ボイスが私たちに問いかけた問題は、なんだったのでしょうか。「ヨーゼフ・ボイスから何を問われていますか?」という問いに、今回展示に参加した社会彫刻家が応えています。
私たちは、ただ日々を過ごすのではなく、私たち全員が等しく未来を考え、現在の問題に対して向き合っているのでしょうか?当事者意識は持っていますか?行動として何をしているのですか?ボイスは、社会彫刻という概念を用いて、我々にこのように問いかけ、巻き込もうとしているのです。
私たちは、被害者であり加害者です。ただ被害を受けているだけという状態は起こり得ず、必ず加害者であり同時に被害者であるということが述べられています。少し難しいので、グローバルウォーミングを例に挙げるとわかりやすいかと思います。自分はCO2排出の加害者であり、それによって温暖化した地球環境の被害者となっているかと思います。
このような大規模で、絶対的な答えが存在しない問い(=アポリア)に対して、私たちはどのように向き合えているのでしょうか。自ら考え、意思決定をして、行動を起こせているのでしょうか。
このような問いを考えることや自身と向き合うことは、すっきりしない複雑な気持ちを抱えながら生きていくことだと思います。できれば考えたくない、目を背けた方が楽だなと感じるとき、きっとボイスが問いかけます。
「君はわたしを見たんだよね?」