羊文学”OOPARTS”とドゥルーズ+ガタリ
■羊文学の「パラノイア」
■ドゥルーズ+ガタリの「パラノイア」
タイトルにある、ドゥルーズ+ガタリとは、フランスの哲学者のジル=ドゥルーズと精神分析学者のフェリックス=ガタリのことです。フーコーやデリダと並ぶフランス現代思想の巨匠です。
ドゥルーズ+ガタリは共著で有名な書物を残しており、それらは、『千のプラトー』や『アンチ・オイディプス』です。
見ていただければ分かる通り、どちらの本にも『資本主義と分裂症』という副題がくっついています。今回取り上げたいのがまさにこの『資本主義と分裂症』についてです。まずは、引用から見てみましょう。
差異を肯定的に捉え、同一性よりも差異の方に注目した彼らからすれば、資本主義的な生き方は、偏った欲望のあり方(=パラノイア)であると述べています。
例えば、安定した会社に入るために難関大学に進学する。そのために勉強をして頭を良くしたい!など現在の社会で一般的に「良い」とされている欲望のあり方がパラノイアです。
一方で、ノマド(遊牧民)的に、色々なところを行ったりきたりしながら、自身の多様な欲望を肯定する生き方をスキゾフレニアと呼んでいます。縦(資本主義的)だけの欲求でなく、横(リゾーム的)な欲求と考えても良いと思います。下記の動画を見るとよくわかります。
これだけ聞くと「どっちもどっち」「なんでもあり」の多様性を履き違えた、価値相対主義という批判の声が聞こえてきそうですが、これについてはまた今度の機会に考えを述べるとして、「OOPARTS」の歌詞の話に戻ります。
■「OOPARTS」と資本主義のメタファー
冒頭で引用した歌詞から「ビル」「コンピューター」「蛍光灯」「25時」などの単語を取り出してみます。ビル街のオフィスでは、夜遅くまで蛍光灯が光っている。PCに向き合いながら仕事をしており、若い男性が風を切って(急いで)どこかに向かって歩いている。
このような風景が想像されます。何が言いたいかというと、これらの言葉は、資本主義のメタファーなのではないかということです。
さらに、歌詞の他の部分も見てみましょう。
ネガティヴに登場する「雄弁な言説」や「勝利の確信」「僕らのエンパイア」などの言葉。「際限ない夢の果ての果て」はポジティヴには捉えられず、「終焉」という言葉に収束されているような気がしてしまいます。
一見、資本主義のメタファーとして関係のないワードに見える「飛び出せヒーロー」も「終焉」という言葉で結びついていると考えます。資本主義的にネガティヴに発展し続ける社会を一変させるような存在への期待や、ヒーローが怪獣と闘う過程でビル(=資本主義の象徴)群が破壊されていく。密かに社会(=僕らのエンパイア)の「終焉」を望む私がいることを暗示しているようです。
上記の言葉が資本主義のメタファーとして登場しているのであれば、歌詞の中に登場する「彼らはパラノイア」というフレーズは、ドゥルーズ+ガタリの言う「パラノイア」に近い意味と考えられます。
■わたしと世界の対立
この引用した2つの歌詞は、よくある1番と2番の構造で、対句になっています。まず注目したいのは「僕らのエンパイア」と「僕のエンパイア」です。「ら」が抜けることによって、複数単位で構成される集団を表現する「エンパイア」から、個人の私的領域を表す「エンパイア」に意味が変わっていることがわかります。
「僕のエンパイア」が、個人の領域を示していることは、「100年弱の夢」という歌詞にも表れているのではないかと考えます。100年弱とは、1人の人間が使うことのできる社会彫刻的な時間(=何かを表現できるリミット)です。
この歌詞と対応するMVのシーンでは、それまで、外の世界を描写していたのと打って変わって、部屋の中でヘッドホンをつけて(音楽に囲まれて)物思いにふけっているような情景描写になります。
つまり、「僕らのエンパイア」は、私の声の届かない、終焉に向かってデスマーチを続ける社会の象徴で、対照的に描かれているのが、「僕のエンパイア」です。「僕のエンパイア」は、自分の好きな物(=「沢山の円盤」=CD=音楽)で溢れた空間で、自分の価値観を肯定できる場所と捉えることができそうです。
■「逃走線」を引く、人生のグレーゾーン
最後に、これまで取り上げてこなかったサビの考察をして終わりにします。
一番注目したいポイントは、「ただ 生きたいの」部分です。先ほど、わたしと世界の対比について述べたことを踏まえれば、この「生きたい」と思っているのは「僕のエンパイア」を持っている、スキゾフレニアの「僕」です。パラノイアである彼らには当然、「僕」の声は届いていません。
そして、この「僕」は、全て決まっている世界の中で何かを見ています。逃げるべきなのかどうか悩みながらも、パラノイア的な世界の中で、「ただ 生きたいの」と願います。
注意したいのは、社会の側を悪いと言っている訳でもなければ、わたしの側を良いと言っている訳でもないということです。
ただ、社会の側をネガティヴに捉え、「僕のエンパイア」を「最高の瞬間」と肯定的に捉えているスタンスは表れているように思います。
「僕のエンパイア」の中で生きていきたいが、そう簡単にはいかない。社会という大きな文脈の中で、どのように生きていくのかを悩み続ける、迷子の個人の視点。白黒がつかない曖昧な状態。大きな物語に回収されそうな個人が生み出す弱々しい文脈。
差異に焦点があたっている「OOPARTS」は、世界に取り残されそうになりながらも生きたいと願う、我々の視点なのではないかと考えました。世界の異邦性(=オーパーツ)を日々感じながら。
■おわりに
簡単に書こうと思っていたら、なんとここまでで3200字弱の長さになってしまいました‥‥。
トンカチを持っていると全部釘に見えるように、フランス現代思想の本ばかり読んでいるので、全部フランス現代思想に見えてきちゃうのはほんと良くないですね。
この熱量で書こうと思えるくらい「彼らはパラノイア」という言葉遣いに、何か意図を感じました。
考えすぎだとは思いますが、フランス現代思想からみた、羊文学「OOPARTS」でした。アルバムめっちゃいい。以上終わりです。
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