『東電OL殺人事件』
佐野眞一:著 2003/8/28
例年にない猛暑の中、回らない頭でYouTubeを見ていると、未解決事件として「東電OL殺人事件」が取り扱われていた。言うまでもなく本件は1997年(平成九年)3月9日未明に、東京電力の管理職であった女性が、東京都渋谷区円山町にあるアパートで殺害された未解決事件のことである。この事件が世間の耳目を集めた原因は、一千万円近くの年収がある一流企業の社員が、夜は売春婦として働いていたという、被害者女性のスキャンダラスな「裏の顔」にある。マスコミは「昼は美人エリートOL、夜は売春婦」と、昼と夜の二つの顔の落差を強調して騒ぎ立てた。当時の報道の過熱ぶりは、殺人事件の被害者であるはずの、彼女の全裸写真を、週刊誌が掲載するほどだった。ちなみに僕は事件が起きた時点で十六歳だったこともあり、これらの事実関係を殆ど何も理解していなかった。辛うじて記憶にあるのは、時折ニュースで耳にする「ゴビンダ容疑者」という特徴的な名前くらいのもので、高校卒業後はドイツに留学していたので、この事件の「続報」を耳にする機会もなかった。帰国後、どこかのテレビで、この奇妙な事件を扱っているのを見て興味を惹かれたが、本を買ってちゃんと勉強しようと思い立つまでに十年以上かかってしまった。我ながら、こういう自分の「フットワークの重さ」にはうんざりする。
さて、この本は以上の様な下世話な興味から手にしたとしても、以下の三つの点で一読の価値がある。
第一は冤罪の憂き目にあったネパール人、ゴビンダさんの人物像である。彼は90日の観光ビザで日本に入国し、飲食店で稼いだ金を家族のいる本国に送金するという「出稼ぎ」を行っており、殺人容疑で警察に身柄を拘束された時点で三年のオーバーステイをしていた。また同郷のネパール人から「家賃」と称してせしめた金は、実際に大家に支払っていた分よりも多く、その浮いた金で女を買っていた(言うまでもなく、その内のひとりが本件の被害者女性という訳だ)。こういった事実を知れば知るほど、彼を純粋な「悲劇の主人公」としては見れなくなってしまう。著者はゴビンダさんの無罪を立証するためにネパールにまで取材に行っているが、そこで明らかになったことは、彼が本国でもそれなりに裕福な暮らしをしていたという事実だった。
つまり日本で違法な出稼ぎをしていた理由を「貧困」と結びつけて考えることは、少なくとも彼の場合は出来ない、ということだ。確かに十年以上も、無実の罪で日本の当局に身柄を拘束されたことは、気の毒としか言いようがないが。それでもゴビンダさんに全く非が無かった訳ではないのである。
第二に興味深いのは、警察と検察のずさんさである。本書を読む限り、どうやら警察はゴビンダさんを最初から犯人と「決め打ち」していたらしく、色々と初動操作の誤りが見受けられる。また警察はオーバーステイや不法就労といった「脛に疵のある」ネパール人から、その弱みに付け込む形でゴビンダさんに不利な証言をさせようとしている。とは言え刑事基礎をするのは、警察ではなく検察なのだから、もうすこしマトモな事実究明が法定では行われているだろう、と信じたいが、実際はそうではない。この内容は、
本書が最も紙幅を割いている部分なので、詳細はそちらに譲りたい。
最後に第三の注目すべきポイントは、矢張り被害者女性、渡辺泰子の奇妙としか言いようのない「生態」である。既に述べた「昼は美人エリートOL、夜は売春婦」という表現は、誇張ではないばかりか、彼女の不可解さを
表す言葉としては、不充分であるとすら言える。先ず彼女は午後五時まで東電で普通のオフィスワーカーとして働き、それから退社後に渋谷の円山町に移動して六時過ぎから路上に立って売春を始める。そして、それから終電までの約六時間に、四人の客を取ることを自らに課したノルマにしていた。
こういったサイクルが月曜から金曜まで繰り返され、この「ノルマ」は週末には五人から六人へと増えた。そして彼女は、この過酷な「二重生活」を母親の実家で妹と同居しながら何年も続けていたのだ。
既に述べたように、彼女は都内の一流企業でそれなりの役職を与えられており、その収入が母親と実家ぐらしをするには充分過ぎるものであったことは想像に難くない。また一回の売春の額面が二千円だったこともあるという
事実は、彼女の「夜の顔」が必ずしも金銭目的ではなかったことを指し示している。しかし金には几帳面なところがあり、コンビニエンスストアで百円玉を千円札に、千円札を一万円札に「逆両替」する、という特徴的な行為が何度も目撃されている。しかし井の頭線の終電で菓子パンを食い散らかし、
円山町の暗がりで立ち小便をするというガサツな側面は几帳面なエリートOLのイメージからかけ離れている。
本書の中で著者は、こういった渡辺泰子の本質を、繰り返し「堕落」という言葉で表現しているが、彼女を表現する言葉として最も適切な言葉は僕ならば「病的」を選ぶだろう。そして、そんな「病的」な女性が、いかなる犯罪も侵さずに、平均的なサラリーマンの何倍もの収入を稼ぎつつも、都内で
「普通に」また、ひっそりと生活していたのだ。
text: 竹下哲生
Shikoku Anthroposophie-Kreis, 日本アントロポゾフィーネットワーク