「私はこうして夢を学んだ」(その7)
私には、夢の学徒として、どこまで自分が成長できているかを測るひとつのバロメーターのようなものがあります。
数は決して多くないものの、私にも「ロマンス」と呼べる経験が人並みにあります。生涯忘れることのできないそのロマンスの相手である女性たちは、全身全霊で私を愛してくれただろうと思います。
「私は彼女たちの愛にきちんと報いることができただろうか」
私はこのことを死ぬまで自分に問い続けるでしょう。
そうした自分の成長度を測るバロメーターとして、彼女たちが夢に登場したとき、「どれほど親密な関係になれているか」というのが、私にはあるのです。最も親密な人間関係の象徴といえば、やはり「セックス」でしょう。つまり、もし私の夢にかつての恋人が登場したとき、冷たくあしらわれるのか、それとも濃密なセックスにまで漕ぎ着けるのかによって、夢の意味はまったく違うものになります。
もちろん、夢に登場するかつての恋人とは、実際の人物とは直接関係ありません。夢の学徒としては「その人によって象徴される自分の中の要素」と考えるべきです。
○○心理学派の○○氏なら、夢でかつての恋人とセックスするというのは、現実には叶わない願望を、夢で補う代償行為というふうに分析するかもしれません。しかしこれは、「夢の中の登場人物とは自分の要素を象徴化した姿である」という夢学の根本原理を無視した考えです。
夢の中のかつての恋人とは、明らかに「内なる異性」です。そうした異性たちとのセックスとは、自分の中の異性的要素との統合を表します。夢の中のセックスとはまさに、異質なもの同士の「合体」を意味します。自分の中の異質なものとの統合が起きれば起きるほど、自己はその深みと広がりを増し、人間的に成長する、ということです。だからといって、夢でかつての恋人が登場したら、必死になって何とかセックスにまで持っていこうとしても、そう簡単にはいかないでしょう。それはやはり現実での自分の成長度にシンクロするからです。さらに言えば、夢の中での自己統合は一回で完結ではなく、何度も経験する必要があります。
夢をみている最中に、自分に都合のいいように夢のシナリオを書き換えることができるなら、夢をみている自分を夢の中で意識している証拠です。これを「明晰夢」と呼んだりします。夢の中にかつての恋人が現われ、そういうシチュエーションを意識できているとして、都合よくシナリオを書き換えて、首尾よくセックスにまで及んだら、さぞかし気持ちよく目覚めることができるでしょう。
しかし、これが本当の「明晰夢」の効用かというと、ちょっと違います。気持ちよく目覚めることだけが夢の存在意義ではありません。夢の中で目覚めていることの意味とは、意識の状態が通常の状態からそのように変容する経験が、自己成長のプロセスとして、どのように位置づけられるかを認識することにあるのです。「明晰夢」とは、意識成長のゴールではなく、あくまで途中経過です。
欲を言えば、かつての恋人とセックスする夢をみたら、その結果どんな子どもが生まれるか、というところまで夢でみていただきたいのです。「正→反→合」の弁証法で言えば、「あなた=正」、「内なる異性=反」、「二人の子ども=合」ということです。ただし、この子どもは、生まれて終わりではなく、あなた自身が(自分の未知の可能性として)そこから現実生活で育てていく必要があります。
明晰夢によって夢の中でかつての恋人と再び親密になれたことで有頂天になるのではなく、夢の中でかつての恋人に冷たくあしらわれたことで、「自分にはまだまだ統合できていない未知の要素が眠っている」と思う方が、よほど自己成長の契機になるでしょう。