ドリームワーカーとクライアントの関係(夢の学び36)
■ドリームワークの落としどころ
ドリームワークをやると、毎回思うことがあります。
皆さんがごく一般的な意味で、いわゆるカウンセリングや心理セラピーといったものに抱くイメージとはどんなものでしょう。
カウンセラーやセラピストはもちろん心理学の専門家で、クライアントはその専門家に、自分の心理について相談したり治療を受けたり、というイメージでしょうか。
だとすると、(少なくとも、私たちのグループが実践している)ドリームワークは、少し勝手の違うイメージになるのではないかと思います。私の感覚では、ドリームワーカーとクライアントは、クライアントがみた夢を二人の真ん中に置き、対等な立場でともにその夢の謎解きをする、というイメージです。もっと平たく言うなら、この二人は、夢を間に挟んで、夢という現象、あるいは人間の無意識といった問題に関して「噂話」をする、という感覚の方が近いかもしれません。もちろん、その「噂話」は、かなり専門的で高度なレベルで、知的興奮に満ちた噂話なのですが・・・。
これがグループワークとなれば、参加者全員で、それぞれの夢に関して、代わる代わるこの高度な「噂話」をすることになるわけです。この場合、ドリームワーカーはその「噂話」の方向性をある程度示して、その際の最低限のルール(あるいはマナー)や注意点といったことを示すだけで、この噂話の落としどころを示すわけではありません。落としどころは、ドリームワーカーを含め、誰かが前もって知っているわけではないのです。
この噂話の落としどころをどのように見出すか、という部分で言えば、それはドリームワーカーごとに若干異なるかもしれません。私の場合は、夢主本人に気づきやひらめきが訪れた瞬間、ということでしょうか。
■ドリームワーカーとクライアントは謎解きの「相棒」
ドリームワーカーとクライアントが、ともに夢の「噂話」をする相手、夢という謎をともに読み解く相手だとするなら、この二人はホームズとワトソンではありませんが、謎解きの「相棒」と言ってもいいかもしれません。
これがもし、一般的な医者と患者の関係だとしたらどうでしょう。一般に、医者は患者の容体は聞いたとしても、患者が人生の何に悩んでいるかとか、どんな願望を抱いているかとか、家庭や職場や学校での人間関係がどうかとか、ということに興味を示したりはしないでしょう。つまり、一般に医者は患者本人を見ているというよりは、医学あるいは医療を見ているのです。医者は患者本人に視線を向ける以上にカルテに目を落としているのではないでしょうか。これは、相棒同士の関係性というより、研究者とモルモットの関係性に近いものです。
一方、気の利いたドリームワーカーなら、クライアントの顔色や気分や生活の様子や人間関係や、どんな悩みや葛藤を抱いているか、といったこと全般に注意を向けます。そして、それ以上に夢そのものに注意を向けます。ともに同じ顕微鏡を覗き込む共同研究者と言ってもいいかもしれません。
あなたが刑事だったとして、ある事件の捜査に行き詰ったら、「犯行現場に立ち戻れ」と自分に言い聞かせるかもしれません。それと同じ意味で、ドリームワーカーはどれだけクライアントに聴き取りをしたとしても、最終的に立ち戻るのは、夢そのものです。クライアントという「相棒」とともに、最後にもう一度夢の文脈、夢の方程式、夢のパズルに戻るのです。そしてもちろん、最終的に夢の意味に気づく(ひらめく)のは、クライアント本人であることをわきまえています。なぜなら、夢というパズルのピースをはめ込む「土台」を持っているのはクライアント本人以外存在しないからです。「土台なき断片」は意味をなしません。ひとつの夢、ないしひとつのシンボルの意味を読み解いたとしても、クライアントが持つ人生の土台のどこかに、その「意味の断片」を位置づけない限り、ドリームワークは完結しません(この「土台」とは何か、についてはまた改めて取り上げます)。
そう、ドリームワーカーは夢の意味に関して答えを持ってはいないのです。
クライアントの方はどうかと言うと、少なくとも答えはクライアントの意識にあるのではなく無意識の中にあります。だからクライアントは自分の夢を媒介にして、自分の無意識を意識的に覗くことになります。いわば自分の無意識を観察対象にするわけです。ドリームワークが自己成長に役立つ理由はここにあります。なぜなら、自己成長とは、一言で言うと「無意識の意識化」だからです。
こうした事情を考えると、他のカウンセリングやセラピーの技法と比べて、ドリームワークの特殊性が見えてきます。夢は、無意識的な想像力の産物であることを疑う人はいないでしょう。いわば、創作者本人も知らない創作物の「主題」を、創作者本人とキュレーターがともに考える、というのがドリームワークなのです。
■特定の理論への依存はクライアントに安全・安心を提供しない
いずれにしろ、ドリームワークに限らず、初対面の者同士が、片方の無意識を一緒に覗き込むという事情から、カウンセラーやセラピストとクライアントの間に、瞬時に信頼関係を結ぶ必要があります。どのようにして信頼関係を結ぶか、という課題が、カウンセリングやセラピーのあらゆる技法に突きつけられています。
その点、ドリームワークは、「夢」という媒体を介すことが前提にあるため、クライアントは比較的エゴの規制を受けずに、すんなり自分の無意識と向き合うことができるようで、その作業に他者を招き入れることにも、それほど抵抗を感じずにすむようです。つまり、「さあ、今からあなたの無意識を一緒に覗きます。どうぞ遠慮なく裸になってください」と言われるのと、「ここにあなたの無意識を反映していると思われる想像力の産物があります。これが何を意味するのか、一緒に謎解きをしてみましょう」と言われるのとの違い、ということでしょう。
もちろん、クライアントにとって安心・安全な「場」作りが前提となることは、ドリームワークの場合も他の技法と変わりはありません。
ただし、ここで深刻な問題が発生する可能性があります。
ある特定の心理学理論に依存しているドリームワーカーだと、この事情はガラッと変わってくるのです。
たとえば、フロイト派だったら、エゴ、イド、リビドーといった概念と夢との関係に注目するでしょう。ユング派だったら、元型という概念に集中するでしょう。アドラー派だったら、ライフテーマと夢との関係に注目するでしょう。実存分析派だったら、夢をもっぱら存在論的、経験論的に扱おうとするでしょう。
これらはどれも、「夢」という現象を、ある特定の視点から眺めたらどう見えるか、ということを示しています。「象」という動物を、尻尾だけ触って「象とは鞭のようなものだ」と言い、鼻だけ触って「象とは太いホースのようなものだ」と言い、耳だけ触って「象とは大きな団扇のようなものだ」と言っているのと同じです。
夢を、ある心理学理論にてらして見る、とはこういうことです。しかし、夢は常に特定の理論を「含んで超えている」何かです。
こうした事情は、ドリームワークだけではなく、他のカウンセリングや心理セラピーの技法だったとしても同じです。特定の理論を絶対視する傾向がある(特定の方法論しか持ち合わせていない)カウンセラーやセラピストは、クライアント本人ではなく理論の方に注目する結果になりがちです。「このクライアントの症状は、私が持っている理論や知識にてらしてみるなら、こういう意味(原因)に違いない」になるわけです。キュレーターが創作者に対し、「私の芸術論にてらすなら、あなたの作品の意味はこうです」と言っているのと同じであり、患者本人ではなく、カルテにばかり目を落とす医者と同じです。こういう人の視線はクライアントにも夢にも注がれているわけではないので、口でいくら「安心してください」「信頼してください」と言っても、クライアントと信頼関係を築くことはできないでしょう。
もちろん、私の「夢学」もある理論に負うところが大です。それはケン・ウィルバーの「インテグラル理論」です。ただしこの理論は、対象(たとえば夢)を特定の視点に限定して見ようとするのでなく、むしろ分野の違いや学派の違いによる限定的な枠組み(パラダイム)を最大限に拡大することを意図した理論です。
■ドリームワーカーは無意識の海で泳ぐ技量が必要
ドリームワークが、ドリームワーカーとクライアントの間の、夢を挟んでの高度な「噂話」だとするなら、カール・ロジャーズを持ち出すまでもなく「クライアント中心療法」であり、フレデリック・パールズのゲシュタルト療法を持ち出すまでもなく、この二人の間に「夢」という対象物が、まるでクライアントの体内から取り出された内蔵あるいはクライアントの分身(ないし代弁者)のようにして置かれ、その夢の言い分に、ともに耳を傾けようとするわけです。
このとき、この相棒同士が本当に耳を傾けようとしているのは、夢という窓口を通した、そのクライアントの無意識の言い分です。クライアントは、夢を通して自分の無意識を客体化し、ドリームワーカーはそれにつき合う(立ち遇う)わけです。
つまり、この二人はともに無意識と意識の間に橋を渡す架橋工事をするわけです。この工事を水に濡れずに終わらせることはできません。したがって、ドリームワーカーに要求される技量とは、他人の無意識にダイブしても溺れずにしっかり泳ぐことができる技量ということになるでしょう。もちろん、この技量を身につけるためには、最低限、自分の無意識の海で泳いだ経験がなければなりません。理論だけを勉強した人間には、これはできません。泳ぎ方の理論を知っているということと、泳げるということはまったく別のことです。もちろん、理論を知っていれば、泳ぎをマスターするのに有利ではあるでしょうが・・・。
これは、単なる比喩ではありません。実際に、ある人が自分の無意識と向き合わざるを得ない事態になったとき、海や湖で泳がざるを得なくなる夢をみることはよくあることです。ドリームワーカーが自分でもそういう夢をみたことがあり、その意味についてよく考え、その考えを現実の自分の人生においても実践してみせた経験があるなら、クライアントを無意識の海で溺れさせることはないはずです。
この原理で言えば、たとえば癌の専門医が癌患者に対するのに要求される技量とは、自分も癌にかかって、それを克服した経験がある、ということになります。これはずいぶん酷な条件に聞こえるかもしれませんが、逆にこういう医者に診てもらえる癌患者はラッキーでしょう。
もちろん「いい医者になりたければ、自分も病気になれ」とまでは言いませんが、そういう経験がないなら、想像力で補うしかありません。逆に言えば、理論への過度な依存は、想像力を働かせない言い訳として用いられることもあるのです。
人は医学的な原因だけで具合が悪くなるとは限りません。具合が悪い原因がその人の無意識の中にあるのなら、本人にいくら問い質しても答えは得られません。その場合、医者であれカウンセラーであれセラピストであれ、原因を知りたければ、そのクライアントとともに覚悟を決めて無意識の海にダイブするしかなくなるはずです。その作業を安全かつ確実にしたいなら、無意識の海の泳ぎ方を覚えるしかありません。そして、この泳ぎのためのギアは、理論よりもむしろ想像力でしょう。
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