人生を決める母の笑顔
1歳8カ月になった次女。日に日に成長し重くなってゆく姿を愛おしく想いながらも、つい口では「重たいー」といいながら抱き上げる。
いつしかそれが私の口癖になっていたのか、最近は次女自ら「おもたいー」といいながら私によじ登ってくるようになった。
まだはっきりとそう言えているわけではないけれど、日々を一緒に過ごしているからこそ通じる言葉たち。
そんな幸せな瞬間を感じながらも、魔の2歳児を目前にして時に私は鬼へと豹変する。
よく怒った顔を鬼の形相と例えるけれど、私の場合は鬼というより般若だ。
ちなみに般若とは、女性の嫉妬や恨みを表現した鬼女の能面なのだそう。
嫉妬や恨みではないものの、私の形相はきっとこれよりひどい顔をしている。
上の子は小学校1年生。二人目だからこそ気楽に子育てできている部分もあるけれど、毎日がイレギュラーな子育て生活では我が子が憎たらしく思える瞬間にもぶち当たる。
でも私の体感では、怒ってしまうときって子どもたちが云々よりも母である私自身の精神状態で大きく差が出る。
母の気分が良ければ、些細なことも許せるもの。
そして母の気分が悪ければ、些細なことで雷が落ちる。
よく子どもに怒ってしまったことに罪悪感を感じる人も多いと思う。
かく言う私も何度後悔し、懺悔したかわからない。
だけど二人目にして、ようやくその前にできることがあると気づいた。
それは母である自分が気分良くいることに努めること。
ちょっとくらいのことなら笑って話せる自分で在ること
子育て中はつい自分より子ども優先の生活になりがちで、どんどん自分を置き去りにしてしまう。
親として伝えなければならないこともあるけれど、子どもとて他人。
自分以外の人間をコントロールしようしてしまうと労力がいる。
そうやって自分の中に満たされない感覚があると、それは必ず子どもに反映されるし、自分自身もあまりいい状態にはなれない。
怒ってしまうときだってある。
だけど怒ってしまうことがダメなんじゃなくて
子どもがダメなんじゃなくて
笑える余白、ユーモアにできる余裕をもっておけるようにすること。
コーヒーで一息ついたり
一緒にお昼寝したり
ちょっといいおやつを食べたり
(インスタントコーヒーをドリップにするだけでもちょっと幸せ)
そうして自分自身に目を向けていれば、怒ったとしても小さく済む。
子どもって思ってる以上に親や大人たちのことを良く見ている。
環境云々よりも、母の笑顔が子どもの人生を決めるんじゃないかとさえ思う今日この頃。
笑うことができるなら、時に怒ったっていいじゃないか
にんげんだもの。ゆきを(笑)
般若の顔した日だって、子どもたちに大好きを伝えながら今日も母は笑うのである。