才能を見出してもらうことや発揮する機会に恵まれることについて(大阪国際女子マラソンより)
「異色」って何?
日本人トップになった選手について
昨日、大阪国際女子マラソンがありました。
大塚製薬所属のランナー、小林香菜選手が自己ベストの2時間21分19秒(日本歴代10位)という素晴らしい記録で日本人トップ、全体で2位という素晴らしい結果を残しました。
小林選手は大学時代に体育会と呼ばれる部に所属をしておらず、マラソンや中長距離の本格的な練習を積むことの無いランニングサークルと登山サークルに所属しており、自身でもそのような練習をしてたわけではないことが注目され、「異色」の経歴と報道がされておりました。
私はランニングに興味があり、マラソンを観るのが好きなので最初から最後まで観ていましたが、一度トップ集団から大きく離された小林選手が、粘り強く、日本人トップで走っていた鈴木優花選手に追いついて来た時には、鳥肌が立ち、涙が出そうになりました。
雑念を持たずに集中する人のすごさを見せてもらえた。そんな気がしました。
「異色」という言葉の妥当性
どのスポーツにおいてもトップレベルに上がってくる選手の多くは、非常に厳しい環境を乗り越えたり、若いころに機会をもらい育てられる環境に身を置くなど似たような経歴を持ち実績を積んでいます。
それとは異なる経歴、実績の少ない小林選手は、正に「異色」と言えるでしょう。
「異色」という言葉の違和感
前述の様に、トップレベルの成果を上げるには本格的な練習を積む、もしくは環境に身を置くことは必要だと考えます。
しかし、部や育成機関に所属した、専門的なコーチに育てられたからこそ、本人の特性より組織やコーチの実績が重んじられ、本人の特性が軽んじられるわけでは無ないが合わず、心身が壊れ引退していく選手がどれほど居たのだろうかと常に考えています。
今回の小林選手は決して「異色」なのではなく、選手にとっては適性だったと考えることはできないのかと感じました。
「異色」として捉え、片づけて欲しくない感情があります。
選手自身が目的や目標を持ち、実業団(大塚製薬)がそれを受け止め、それだけの情熱をこの結果につなげた成果こそ、「異色」ではなく「原色」であって欲しいと願うからです。
常識や型に従うことによる弊害
話は少し大きく出てしまいますが、日本の教育自体が「目的」より「手段」が先行しているように感じています。
各教科を教わる際に、何をするためにその教科があるのか?
各理論や定理を教わる際に、何を目的に何を果たすための理論や定理なのか?
などを十分に教わらず、それを知っているか否か。または使えるか否かを問うていく試験や受験があり、覚えている者が勝つ。
勉強という「あるスキル」に長けている者に偏った評価ばかりをしていないかと考えています。
結局、それらを活用する機会、興味や関心を感じたり深める機会が目的として与えられることが無いまま、多くの事を忘れ、学びが生きたと実感することは少ないと感じています。
目的と目標のない「型」や「枠」
話はさらに遡り、人の本質的性質を考えると、
「何のためにそれをするのか?」など、目的を考えるとは脳は活性し、行動を促進させるといわれています。
それを叶えるには、何をいつまでにどのくらいやらなければならないのか?
目的に基づいた目標は、積極かつ前向きな行動となるのです。
しかし、学校教育において教科と並行して目的や目標を考えたり、ライフプランやキャリアプランを考える機会は少なく、教科におけるテストなどの点数による学業成績を上げることが目的で、テストの点数、テキストやドリルのレベルや冊数、偏差値を上げることが目標とされていました。
運動系の部活動においても、漠然と試合に勝つことを目的されていましたが、それより練習時間や走るなどの記録、競技のフォームなどが重視され、競技自体が好きかどうかで選んだはずの運動も、うまくなりたい、強くなりたいにつながらない練習となり、なぜそれをやっているのか、続ける意味は当然わからなくなっていきました。
要は、目的や目標を考えさせてもらえず、世界観が目の前の与えられた「型」や「枠」にはめ込まれた教育を受けてきたように感じています。
もちろん、全てが教育の仕組みのせいではなく、自ら書物を取り学ぶ姿勢があれば良かったと、自らに大いなる反省は否めません。
但し、今でも義務教育や受験などの教育の型、新卒など就職(就社)の型には違和感しかありません。
問題児だった高校時代、私はある事件を起こしひどく怒られました。
それは、ある教師が授業の台本の様なノートを作っており、それ通りにしか授業ができず、問題から派生した質問に答えられませんでした。その教師は、そのノートが無いと自習にするほどそのノート頼みだったため、教師の職責は何なのかと腹を立てた私は、職員室に忍んでそのノートを隠し、授業を自習にすると共にその状況を告発し、教員に囲まれ説教をされていた自分は何をやりたかったのか、なぜ説教を受けているのか一切耳にも心にも響かず空しかった思いは今も残っています。
ただ、小学校の頃から学校に行く意味が分からず苦しんでいたのですが、自ら「型」を外れて学ぶことができずに幼稚なことをしていたと、先ほどの繰り返しではありますが、今ではただただ残念なことをしていたと考えています。
小林選手が実業団の選手になり、結果を出したことについて
大学時代は総務省の官僚を目指し、勉強をされていたそうです。大学3年生の頃に長距離走に本腰を入れたいと考え始められたようで、自ら実業団に応募するという行動を起こされたそうです。
要は、目的や目標が持てれば、可能性を開花させることができるという見本そのものではないかと思いました。
「経歴」や「実績」は確かに必要です。ただし、知識やスキルだけでなく、マインドがベースになければメンタルが成長できず、実力を発揮できたり協議を継続できたりしないのではないかと考えています。
ですから、今回のようなことを「異色」とせず、もっと「原色」として扱ってもらいたいと考えました。
これからの教育への期待
「やりたい」「なりたい」など、夢や願望。それにつながる目標。
簡単なようで、学校ではそれがあまりないと感じています。
夢や願望と実際にやることが結びつく。
何事も、希望や願望だけでは続けられないから、支援が要る。
そのための組織や教師がどれほどいるでしょう?
また、先生方がそのために働ける環境となっているでしょうか?
是非、今回のような素敵な結果を、より多くの人達が感じられるような機会をもっとたくさんあって欲しいと考えています。
自分ができること
私の仕事はそれを目指しています。
まだまだ微力ですが、少しでも力添えができる仕事でありたいと考えています。
何かありましたら、お声がけください。
よろしくお願いします。