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[archive]アナ・メンディエータのアース・ボディ志向:フェミニズム・アートという限界を超えて(2015-08-10)

※以前書いた文章をアーカイブとして転載します。本文章は2015年8月10日に以下のブログにアップしたものです。
https://ansaishihoko.wordpress.com/2015/08/10/mendieta/

1.1970年代のサイトスペシフィック・アートとその他の芸術の動向

たとえば、生活様式の変化が私たちの生活空間のあり方を変えるように、社会における芸術のあり方も時代によって変化している。かつてサイトスペシフィック・アートは特定の場所と綿密に結びついていたが、現代にいたるまでにその結びつきも緩やかに変化してきた。ミォン・コォン(Miown Kown)が示しているように、過去30年の間で「サイト」の概念は物理的な場所(場に根ざし、不動で、現実の)から言説的なベクトル(場に根ざさない、流動的な、ヴァーチャルの)へと移行している[1]。

この30年間の中には、女性アーティストによる作品も数多く確認できる。前述のコォンの著作の中にも数名取り上げられている。例えば、1973年のミエール・ラダーマン・ユケリース(Mierle Laderman Ukeles)による《メンテナンス・アート(maintenance art)》 シリーズは、美術館というパブリックな場を掃除するパフォーマンスによって、隠された労働者、すなわちプライベートな場での女性の家事労働への依存を露にし、社会的・性別的な分割を表出させている[2]。1972年にはロサンゼルスの「ウーマン・ハウス」プロジェクトで、イベントが行われたアパートの一室に《子宮部屋(Womb Room)》が作られたが、その後の1995年のブロンクスの美術館での展覧会(Diver to Labor: Woman’s Work in Contemporary Art)での再制作によって、その作品におけるオリジナルのコンテクストにおける「(物理的な)サイト」との関係性の意味合いがないがしろにされてしまって、無害でただ美しいものにされてしまったということも問題として取り上げられた[3]。さらに、1993年に開催された「Culture in Action: New Public Art in Chicago by Sculpture Chicago」では、 スーザン・レイシー(Suzanne Lacy)が100個の大きな石灰岩に100人の女性の名前を刻み、を記念碑のようにシカゴの街中に置いていく《フル・サークル(Full Circle)》がある[4]。

1970年代より、女性アーティストの活動が注目されるようになったのは、この時代にフェミニズム運動の運動が再燃したことが大きいだろう。それは、1966年にジュディ・シカゴがカリフォルニア州立大学フレノス校で開講した「フェミニスト・アート・プログラム」を端に、フェミニズム・アートは広く認知されるようになったと考えられる。この1970年代の他の重要な芸術の傾向としては、ランド・アートとボディ・アートが挙げられよう。ただし、これらは元々フェミニズムとは逆方向の男性的な芸術の系譜を辿るものである。ランド・アートはミニマリズムの行き詰まり、あるいはそれまでの制度化されたホワイトキューブの展示空間に対する批判であり、ボディ・アートはピエール・マンゾーニやイヴ・クライン、あるいはそれ以前のデュシャンやダダイズムの芸術の傾向を、ある意味で起点に置くことが出来る。しかし、フェミニズム・アートにはそのような歴史がなかった。1971年にリンダ・ノックリンが「なぜ偉大な女性アーティストがいないのか」という論文を発表したように、女性の芸術界への本格的な参入は、この時代からであったと言わざるを得ない。

2.アナ・メンディエータと他の女性アーティストによる女性の身体の使用

「シルエット・シリーズ(Silueta series)」
「シルエット・シリーズ(Silueta series)」
「シルエット・シリーズ(Silueta series)」

このような時代に活躍した女性アーティストの一人が、アナ・メンディエータである。メンディエータは、キューバ生まれのアーティストである。12才の時に姉と一緒にアメリカに渡り、後にアイオワ大学で絵画を専攻するようになる。その頃に活発に行われていたパフォーマンス・アートやアクショニストらに刺激を受け、身体を意識した制作を行い始める。彼女の作品は、彼女自身の身体、大地、草、水、火などを素材にし、主に写真や映像でパフォーマンス作品を発表した。1973年から開始した代表的な作品群「シルエット・シリーズ(Silueta series)」(図版)は、自らの身体の輪郭を様々な屋外のロケーションにて、自らの身体はそこに不在のままシルエットとして大地に刻みつけ、写真や映像で記録をするものであった[5]。

ジュリア・ブライアン・ウィルソンによると、メンディエータは自身を「アース・ボディ・アーティスト(earth-body artist)」、また作品を「アース・ボディ・アート(earth-body art)」と称していた[6]。それ故に、今や彼女はパフォーマンス・アートとランド・アートを融合した人物であると理解される。しかし、彼女に対する批評の記事は、専ら彼女の作品をフェミニズム・アートと称している。ブライアン・ウィルソンは、メンディエータやボディ・アーティストのマリーナ・アブラモヴィッチについて書かかれたルーシー・リパードの次の言葉を引用する。「性別志向やジェンダー志向(the sexual and gender-oriented)は、女性アーティストによって、コンセプチュアル・アートの中で身体(body)を使用する[7]」。特に、フェミニズム・アートと呼ばれる作品の中で、女性アーティストはしばしば自分のからだや女性のからだを扱うことがある。しかし、芸術や社会の中で長いあいだ客体として認識されてきた女性の身体を、女性自身があえてその中で使用することに矛盾を感じないだろうか?そこに危険はないのだろうか?そして彼女たちのからだを客体として再認識させかねないのではないだろうか?

3.「アース・ボディ・アート」とアース志向・ボディ志向

《レイプシーン(Rape Scene)》

メンディエータも他の多くの女性作家と同様に、彼女自身の身体を使用した作品を制作する。1973年に発表した《レイプシーン(Rape Scene)》(図版Ⅱ)という作品は、アイオワ大学のキャンパスでの女性に対する暴力の報告がなされた後に制作されている。彼女は自らの下半身を露にした上で牛の血液をそこにペイントし、テーブルに縛り付けられるという行為を行った。この制作過程には、彼女をテーブルに結びつける人、彼女を見つけ記録として写真を収める人の協力も不可欠であった。それによって彼女は制作者という見る者であると同時に、暴力とまなざしの対象物となる。メンディエータのような制作プロセスは、見る者と対象物の関係を複雑化するものであり、あえて客体となっても自らを主体化させる契機ともなりうるのである。

しかし、メンディエータのこのような身体の使用の仕方は、《レイプシーン》の制作と同年に開始され、その後長期間にわたり制作される「シルエット・シリーズ」から明らかに変化している。まず、残された写真や映像作品には彼女の本物のからだが一切映っていない。そこには、その名の通り「シルエット」が叢の中の凹みとして、あるいは土が彼女の形を象って、あるいは炎が人型に燃えるように配置されるなど、彼女のからだの痕跡が写真や映像に残っている。ニューヨークでのフェミニズム・ムーブメントは彼女の作品を見逃さず、彼女を「女神(goddess)」に仕立て上げようとした[8]

「シルエット・シリーズ」を見る限り、大地や他の素材から形作られるからだの形は、確かに下半身骨盤部分が女性らしく洋梨型に膨らんでいるかもしれないが、そこに性別を読み取るのは難しい。だが、そこにはメンディエータの新たな意志があったのではないだろうか。それはすなわち、フェミニストのグループに所属しながらも、フェミニズム・アーティストという神話から決別するメンディエータの意志である[9]。フェミニストグループは、彼女の作品を賞賛し、彼女をフェミニズム・アートにおける神話的象徴存在に仕立て上げようとしただろう。しかし彼女がいつも強調していたのは、一般的な「アース」のアイディアではなく、リアルで特定の「アース」で作品を制作するという決意だった[10]

フェミニズム・アートのように、ある世界を形容詞で限定するような方法は、排他性を生む可能性と作品の同質化の傾向に陥る危険性がある。それは、はじめに示したアーティスト、スーザン・レイシーが《フル・サークル》の作品が全ての女性を包括的に結びつけ、「神話的コミュニティー」の青写真を示した結果、コミュニティーが同質化してしまったことからも明らかである[11]。また、他の多くのコミュニティー志向のアーティストやその作品も同じように街を均質化し、街のアイデンティティという限定を付与してしまっている[12]。

このように、メンディエータの「シルエット・シリーズ」における「アース・ボディ・アーティスト」としてのアース志向、そして自らの身体をあらゆる言説に集約されるのを拒む姿勢としてのボディ志向は、特定のコミュニティーと呼応しない。彼女はコミュニティーのアイデンティティではなく、彼女自身のアイデンティティと戦っていたのではないだろうか。

最後に、ブライアン・ウィルソンが引用するルイス・カミッツァー(Luis Camnitzer)の言葉について考えたい。

彼女の作品は、アメリカの神秘的異国趣味理解によって高められたフェミニズムの計画的な表現として見做されていた。したがって、それは芸術のなかの表面的人類学的な流行の文脈のなかに位置づけられる。これらの観点から彼女の成功のいくつかは、誤った理解によるものかもしれない。彼女の作品は計画的ではない。簡潔に言うと、セルフ・ポートレートである。[13]

このセルフ・ポートレートという語に含まれている皮肉はひとまず無視しておいても、少なくともフェミニズムという新たな歴史の視座による家父長的な制度の中にメンディエータの作品は内包されないと言えるだろう。彼女は「シルエット・シリーズ」の後に、1981年から1985年に不慮の事故で亡くなるまでのあいだ、「岩石彫刻(Rupestrian Sculpture)」シリーズの制作をしている。初期の頃から、絵画の原型とも言われる(ウィルソンが指摘する方法で言えば)ポートレートを撮ることや、晩年の石に痕跡を刻むようなプリミティブな方法は、(歴史的起源の探求ではなく)自らの起源、太古の記憶を取り戻すための「アース・ボディ・アーティスト」としての一貫した姿勢だったのかもしれない。

[1] Miown Kown, One Place After Another: site-specific art and locational identity, MIT Press, 2004, pp.29-30.
[2] Ibid, p.19.
[3] Ibid,
[4] Ibid,
[5] メンディエータの略歴については下記の図録のアーティスト概説を参照した。姫野希美編,2013,『内蔵感覚:遠クテ近イ生ノ声』赤々舎,p.100.
[6] Julia Bryan-Wilson, Against the Body: Interpreting Ana Mendieta, Ana Mendieta: Traces, curated by Stephanie Rosenthal. Hayward Gallery of Art, 2013, p.27.
[7] Ibid, p.30.
[8] Ibid, p.31.
[9] メンディエータは、1978年からニューヨークに移り住みフェミニズム団体に参加し、1977年にはフェミニズム・アーティストを支援するA.I.R galleryで展覧会にも参加している。
[10] Ibid, p.30.
[11] Kown, pp.119-120.
[12] Ibid, p.55.
[13] Bryan-Wilson, p.29.

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