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梨木香歩『やがて満ちてくる光の』
この本を読んでいる間中、私にとってのおばあちゃんに会いたくなった。
おばあちゃんと言っても、血縁関係には無いのだけど。
とても不思議な縁で、彼女は訪問販売をしていた私の母親のいち、お客さんだった。
集金日に、私はよくその回収に一緒について行っていたのだが、私たち家族のことを良く思ってくれていて、気がついたら私はしょっちゅう、彼女の家に遊びにいっていた。
おばあちゃんの知恵なるものを沢山持っている人で、色々なことを教えてくれた。
みかんは皮ごと焼くと甘くて美味しい。
そうめんにあんずやレーズンが会うこと。
どくだみ茶がとても美味しい。
彼女のつけたらっきょうにかなうものはなく、未だにカレーを食べると、「あれ、食べたいね、と。」みんな口を揃えて言う。
ツクシや菜の花を摘みに行ったり、貝を拾いに行ったこともあった。
持ち帰って一緒に料理をしたり、絵を描いたり。
陶芸がお好きで、彼女のおうちで陶芸の粘土で作ったうさぎのオブジェ。
裁縫も得意で、ロックミシンの使い方を好きに使わせてくれた。
一緒に絵を描くと、私の色彩感覚をいつも褒めてくれた。
あの家の中だと、私はなんでも出来たように感じていた。
学校や家だと、「違う、」「もっと丁寧に」などと言われると、心の狭い私はすぐに拗ねて、作業を辞めてしまっていたから。
ある意味、私の感覚や価値観はあの家の中で形作られていた。
少女みたいな人だった。
私を変に子供扱いもしなく、いつも、友達みたいに感じていた。馴れ馴れしく接する訳では無いのだが。
その絶妙な距離感が心地よくて、大切だった。
中学に上がる頃に少し遠くに引っ越してしまい、そこからは1度もあっていない。
だからか、とても大切なのに、忘れてしまっていたことを、この本によって思い出したのだった。
この本は、不必要に人生にさまよう中学生頃から20歳、今現在の私に希望をくれたようだった。
キノコというのは、極度にストレスがかかったときの異常事態の産物なんです。彼らのスタンダードの状態は、私たちの目には見えない地下の菌糸です。
人間というのも、このキノコみたいなものじゃないかなと最近思うのです。地下でみんなが繋がっているのだけれど、たまたま何かの異常事態によって外に出て生きている。
そう考えると、死ぬということも、キノコがまた菌糸に戻るように、「ひとつ」に戻っていくことかもしれない。
老いというのは、可哀想なこととは違う。また元に戻っていこうとする、大きな変容のひとつなんだと。
どうしたって人間は、私は、変わりゆく、朽ちていく。それを止めることは出来ない、し、それが悪いことでもない。それは宿命だから。
特別な誰かがそのような孤独から救ってくれるわけわなく、私たちは日々を慈しむまなざしを持ち、そのまなざしで自分を丁寧に手入れして、自分の足で地面を踏みしめて生きることでしか、自分を救えないのだ。
私が、本当に見つめるべきものを、美しい言葉と豊かな描写で、柔らかく、そっと、教えてくれた。
この本は私にとっての御守りになるだろう。
何度も読み返して、
何度も、何度も。
忘れっぽい私は、きっと、さっぱり忘れてしまうから、その度に、読み返したい。
いくつか、心を打ったものを引用。
執着と、守ろうとする意志の間は紙一重で、ただこの頑なさがプラスにもマイナスにも働いて、私の人生を仕方なく象っていく
ただ、いっしょにいる「その場」で、私はあなたの敵ではないよ、そばにいるよ、と言っているだけなのだ。
そう、私たちは英雄にならなくても、ほんの少しの勇気で、誰かを救うことが出来る。大きな流れに、静かに抵抗することができる。
自分から境界を能動的に突破しようとするのではなく、変容が起こることを丸ごと受け入れる覚悟をする、
そう、腹を据えるというか。元々自分の意思で生まれてきたのではない、被造物であることを諦める、というか。
本当の個性は、ヤドカリのようにパターンを渡り歩くことではなく、努力して身につけた型を、それでもどうしてもはみ出していくところにある。