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こころ・読書|死産した私が乗る小舟の補助船。

なんでも見つかる夜に、
こころだけが見つからない

を読んでいる。

馬とジョッキー
働くことと愛すること

心に迫るものがあった。
もっと咀嚼したいけれど、
とりあえず、今の気持ちを。



ーーー

死産を通して、理性と感情を意識するようになった。

子宮内胎児死亡の診断を受けてから、理性的にやるべきことを淡々とこなす自分と、どうすることもできない我が子の命に涙する自分と、その両方があることを強く自覚していた。

理性的な自分が顔を出すときと、感情的な自分が顔を出すときがある。両方とも自分なんだけれど、あまりに理性的過ぎる自分に驚く一方で、感情的な自分だけでは事は進まないとも思っていた。

理性的な自分を感情的に見る自分と、感情的な自分を理性的に見る自分がいた。我が子を亡くしながら理性的にふるまう自分はひどく冷徹なように思えた。もっと取り乱して悲しむものなのではないか、と。かといって、感情的な自分が抑え込まれているような感覚もなかった。理性的な自分がいるから、感情的な自分が救われる感覚すらある。



私の中の馬とジョッキーは、どんな関係なんだろう。

たぶん私はジョッキーがとても強い。産休に入る前は、仕事に忙殺されて、疲弊していた馬を見て見ぬふりをしていたんだと思う。それに、疲弊した馬をどうすれば回復させてあげられるのか、私の中のジョッキーはその方法を知らなかったんだと思う。

最近怖がってばかりの運転も、馬はもう少しゆっくりしたペースで慣れていきたいと言っているけれど、最適解を優先するジョッキーは、ゆっくりを許さない感じがする。少しずつ怖さが小さくなってきたけれど、それはジョッキーの調教によるだけなんだろうか。たぶんそれは、次の働くことと愛することに関わってくる。



働くことと愛することと。

私は登場人物にひどく共感できた。
私は安心できる誰かが、自分の中にいないような気がする。親や夫に悪くされているということはないけれど、私は私のままでいい、と思えていない。条件付きの愛、頑張っていないと認められない感覚。



愛すること。

最近、両親との関わりの中で、私が両親と積極的に関わりたくない理由がわかってきた。両親は、無意識にジャッジをしている。面と向かっていい悪いとジャッジして、行動を制限することはないけれど、言葉や態度の節々に見え隠れしていることに気づいた。

夫は努力家で行動することをよしとする。私はこの産休中、死産後とは思えないほどに活動的に過ごした。運転することを目標に、漢検2級を目標に、ひとつずつ行動を重ねてきた。友人にも驚かれるペースで、私は何かを為そうとしている。その何かはわからないけれど。

両親との関わりの中で、条件付きの愛、私は私のままでいいという感覚を持てずにいる私は、夫に愛されるためには頑張っていなければならないと、自分で自分を追いつめているような気がする。

夫には「十分やることやってるよ」と言われたのに、自分では全くそう思えなかった。夫には「高望みしすぎなのでは」とも言われたけれど、自分が何かになりたいのではなく、何かを為そうとしていなければ、自分がここにいていいと思えないだけなんだと思う。だから、際限がない。

死産については母の落ち込みがひどかった。しまいには「私があなたを産まなければ、こんなことにならなかったのに。」と涙しながら、母が母自身を責め始めた。その言葉は、私の人生のすべてを否定する言葉である。その言葉を私にかけた母は、私が指摘するまで、その意味に気づいていなかった。

愛されていないとは言えないけれど、母の思いと違ったら、私は私のままでそこにいていいだなんて思えなくなる。きっと、私は昔からそういう思いを感じてきたんだと思う。



亡くなって産まれた我が子は、とても愛おしかった。

我が子を抱いたとき、我が子の命よりも大事なものはないと、心から思った。亡くなっている我が子が呼びかけに反応してくれることはないけれど、それでも私は我が子を愛していると自信を持って言える。

我が子は私に愛することを教えてくれた。

だから私は、死産したにも関わらず、幸せを感じたんだと思う。



気軽に継続したカウンセリングを受けられる機会があればいいのにと思う。昔は「大船」だったからカウンセリングに対応するつながりがあったんじゃないかと思う。しかし「小舟」になった今、どうやって航海していけばいいんだろう。

先を読み進める。



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