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仕事の境界線|わたしの仕事と、

いきづまったとき、脳内解剖図を書く。
自分が何を思っていて、何を感じているのか。
自分の本心は何なのか。

自分の気持ちや考えを掘り下げていく中で、
思いもよらない場所にたどり着くことがある。

本当はこれが引っかかっていたんだな、とか。
こうすれば道が開けそうだな、とか。

4月から新しい立場になって、自分なりに頑張ってきたつもりだったけど、どうも実にならない、足掻いているだけで、報われない、そんな感じ。

私はそれを自分の力不足、努力不足だと解釈していた。
だから、自己嫌悪に陥るし、何もかもがどうでもよくなる。

だけど、そもそも求められていることではなかったのかもしれないし、私一人の力でどうにかなるものでもなかったのかもしれないし、業務分担したそれぞれの力不足あるいは、やる気不足だったのかもしれない。

上司の心得とか、マネジメント術とか、リーダー論とか。
そんなものを本屋で探した日もあった。
noteでいろんな悩みを読んで、共感した日もあった。
勇気づけてもらって、頑張ろうと思える日もあった。

ふと、私の仕事ってなんだろうって考えた。
組織をよくすることは、すべての人が心地よく、健やかにはたらくために、ベストなパフォーマンスをするために必要なことだと思っていた。だけど、それは私のエゴでしかなかったのかもしれない。悲しいけれど。

私の仕事ってなんだろう。
私が負うべき責任ってなんだろう。

仕事の報酬は我慢の対価ではない。
仕事の報酬は労働力や能力、価値に対して支払われるものである。
(「我慢して生きるほど人生は長くない」で学んだ。)

どこまでが仕事なのか裁判にもなる仕事だけれど、
いずれにしても我慢の対価ではない(はずである)。

能力をどこでどこまで発揮することが仕事なのか、私にはわからない。
だけど、我慢は求められていない(はずである)。

自分ができる範囲で仕事をしたらいい。
私は何を我慢しているのか、何を手放せるのか。

それらを認識して、自分のできる範囲に正直であることが、健やかであるコツだと思う。



なんて言いつつも、我慢して無理をしないと成長できないんじゃないかという恐怖もある。勤続年数に応じて、給料は上がっていく。成長していても、していなくても。別に成長しなくても給料が上がるんだったらそれでいい、と言われればそれまでだが、漫然と働いていたくないという思いがある。

結局わたしは、責任を持った決断ができないのかもしれない。

自分で決めた人生には、負うべき責任が伴う。
その責任を負う覚悟こそ、わたしには必要なのかもしれない。


少し冷静になれた日曜日の夜。

今日はぐっすり眠れますように。
明日、みんなが健やかに過ごせますように。


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