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死産・生き方|これは我が子がくれた、私の心のリハビリ期間。

風邪からやや復活し、ほどほどに活動する病み上がりの月曜日。

車庫入れの練習をして、夫を最寄り駅まで送ってきた。
車通勤に向けた大きな一歩、初めて公道を一人で運転した。

挑戦は、優しさのおかげ。



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私は、生粋のペーパードライバーである。

およそ10年前に免許を取って以来、一度たりとも運転したことがない。東京で過ごしている今、運転できなくても生活には困らない。運転できたらいいなあという漠然とした気持ちは、仕事の忙しさに追いやられてしまって、お気持ちで終わっていた。

しかし、死産を期に、時間ができた。車通勤が許される職場で働いている。満員電車の通勤から卒業するチャンス、ストレスを減らすチャンス、自由に動き回れるようになるチャンス。夫にもったいないと言われながらも、ペーパードライバー講習に行き、半ば勢いで中古車を購入した。あとは練習あるのみだ。怖いけど。



大人になって、怖いことってあまりない。

車庫入れが全然うまくいかない。自分で操作している感覚がない。たまたまうまくいっただけで、意思をもって操作できていない。前進することはできるけれど、後ろに進めない。ちなみに、車線変更も怖い。

大人になって、こんなにも練習が必要なことってなかった。大体のことは大体にできるし、頑張ってまで何かを身につける機会がなかった。何かを身につけること、できなかったことに取り組むって、怖いんだって知った。



挑戦って、こういうことを言うのかもしれない。

今まで自分が挑戦だと思っていたことは、安全圏での「挑戦」であり、うまくいく見込みがあるから取り組んだに過ぎなかったんだと思った。見込みがあるってことは、自分がわかることの域を出ていない。うまくいかない、失敗する余地なんて、そこにはない。

そんな「挑戦」ばかりで挑戦から遠ざかっていたから、失敗が怖くって挑戦できないっていう悪循環だったのかも。そんなんじゃあ、自分の世界は広がらないよね。どちらかというと、どんどん小さくなるかも。



ここ最近、挑戦できている。

死産後、死産児のための服を寄付したくって、自治体の保健センターや死産を経験した人のケアをしている団体に、当てはないかと問い合わせをしている。これは、うまくいく見通しがないけれど、取り組んでいることだ。

問い合わせに返信がなくても、それは行動しなかったときの結果と変わらない。だったら行動する方がいい。今までの私なら二の足を踏んでいただろうし、行動を起こさなかったと思う。だって、失敗が怖いから。怒られるのが怖い、蔑ろにされることが怖い。傷つくくらいなら、行動しない方がましだって、安全圏でぬくぬくしていたほうがましだって思っていただろう。



私が挑戦できているのは、優しさのおかげ。

死産のとき、人のあたたかさが何よりも救いになった。それはその一時だけで終わるのではなく、今の私の回復の早さをも支えている。世界は悪くない、優しさにあふれているって思えた。特に病院には感謝しかない。

人の優しさに触れたとき、人は恐怖を乗り越えて行動できる。子供たちの心理的安全性の確保をしてきた私だけれど、私自身の心理的安全性は確保できていなかったと知った。人のために使ってきたケアする力を自分に向けてあげたい。




これは我が子がくれた、私の心のリハビリ期間。




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