夜の川
昨日はたまたま代打になって、小松と夜の散歩に出た。
夜の散歩は暖かい時期にしかしない。
今年になって最初の夜の散歩だったかもしれない。
同じ場所であっても時間帯で出会う人は変わるし、構成する人種も変わる。
川も夜には夜の顔をする。
久しぶりに夜の川に行ったら小松が「ちょっとゆっくりしましょうよ」と言う。
本当なら小松は帰宅するサラリーマンがいっぱいいる駅に行きたかったのだけど、私は人混みが苦手だから断って夜の川にしてもらったのだけど、小松なりに夜の川を楽しみたいらしい。
初夏には小松と毎年月見をする。
毎年違う人とそこで出会って仲良くなったりするのだけど、私が夜の川に行くのは初夏だけなので付き合いも接点のようになる。
私としては丁度いい距離感だ。
一昨年仲良くなった月見の仲間は秋になるまで姿を表さなかった私を引っ越してしまったのだと思ったという。
去年仲良くなった夜の人と会えるような気がしたら、予感的中。
小松とダラダラしていたら向こうから彼は現れた。
「こんばんは」と挨拶したら彼は目を見開いて
「久しぶりやないと?!半年ぶりほどかな」と言った。
時間は19時過ぎごろ。
こんな時間に散歩してる人は実は少ない。
夕食どきだからだ。
だけど彼はいつもその時間だ。
不思議なもので自分のサイクルで生活していると似たような生活習慣の人間と出会うものだ。
彼は気ままな年金生活者、私は気ままな隠居生活者。
お金はないし仕事もないけど毎日それなりに忙しく暮らしているから普段は長話はしない。
だけど昨日は久しぶりだし、いい夜だからという事で久しぶりにゆっくりお話をした。
私はブログの最初の記事で「川の石になりたい」と書いたのだが、彼も「川の石になりたい」といった。
正確には「川の表面は風に晒されたりしてサザナミがたったりするが、自分は深場の水のようにずっとないでいたい、川の石のように深いところにいたい」である。
不思議な感覚になる。
世代も、生まれも、育ちも何もかもが違う人が同じ気持ちで川を見ている。
こんな経験が何度かある。
人は死期が近づくと水場に吸い寄せられると言う。
死期を感じているわけではないが、水場に集まる人間には何か共通の感覚があるのかもしれない。
いい夜に並んでなんて事ない話をした。
昨日の夜は川の底で石になった気分になった。
隣には私より少し大きな石と小さな石があった。
隣に石がある感覚がより嬉しかった。
最後に「あんたの悩みはなんや?」と聞かれたので
「一人になりたいけど、一人で生きる力がないこと」と答えたら「難しいな」と帰ってきた。
人生のエキスパートを困らせてしまった(笑)
でも私は知っている。
誰でも死んだら一人になれる。
だから私の願いは遅かれ早かれ叶う。
だから何も心配してない。
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