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「居場所」はありますか?
「居場所が必要」と言うけれど
文部科学省は「存在感を実感することができ、精神的に安心していることのできる場所」を「居場所」と定義している。
「居場所づくり」という言い方から想像するに、「家庭」は「居場所」としてはカウントしないようだ。「学校に居場所をつくる」という言い方も見られることから、「学校」自体はあまり「居場所」として認めてもらえないのかもしれない。
社会一般的な「居場所」の定義は、存在感を実感することができ、精神的に安心していることのできる家庭と学校をのぞくサードプレイスといったところか。
僕の「居場所」はどこだろう?
あなたの「居場所」はどこですか?
案外難しい。
家庭と職場をのぞくサードプレイスを大人にとっての居場所として考えてみる。家庭と職場を往復するだけの毎日を送る大人の場合、「ここが居場所だ」と答えられる場所はどんな所だろう。
僕の場合、存在感を実感することができ、精神的に安心していることのできる場所や空間は、その時その時でいろいろ変わる。
カフェでコーヒーをすすりながら、本を読んだりパソコンを叩いたりする時間がとても気分がいい。読みたい本を読み、やりたい仕事をマイペースで進められる。
愛犬と過ごす夕方の公園が心地よい。自由に走り回る愛犬を見ていると幸せな気持ちになる。
無性に本が読みたくなって図書館へ行く。静かな空間で一人活字と向き合うと心が穏やかになる。
ジムで汗を流す時間も好きだ。自分が変われる気持ちになれる。
どこか一つの場所とは限らない。その人が「居場所だなぁ」って感じる場所や空間は、一人一人、その時その時で違うような気がする。
なのに最近の「居場所が必要」と主張するニュースや記事を見ていると、不登校の子供たちを学校・家庭以外の「施設に収容する」ことが不登校支援だという誤解を与えかねないと危惧している。フリースクールや「居場所」を増やさないと不登校の子供たちは大変なことのなる、って考えている人も多いのでは。
もちろんフリースクールは必要です。そこで一生懸命子供たちに寄り添う方々のおかげで救われている子供たちがいる。そうした場所が増えることは大切だし、必要なことだと思う。
でももっと大切なのは、不登校の子供たちもためらうことなく家から出かけて活動できる「居場所としての地域社会」をつくることじゃないかな。
居場所としての社会
不登校の子供たちや保護者は、友達が学校に行っている時間は家から出てはいけないんじゃないかって考えてしまう。社会の目が怖い。「学校に行っていないのに何してるの?」って言われるのが怖い。
だからといってフリースクールなどを堂々と出かける大義名分のように捉えて増やそうとするのは、ある意味、不登校をどこかに収容しようとする考え方につながり、それはフリースクールでがんばってる皆さんの思いとはまったく違う。
本来、地域社会が居場所であるべきじゃないかな。
分断のない社会。
学校に行かなくても活動、活躍できる場所がいくらでもある社会。
学校に行かなくても自分の存在感を認めてくれ、受け入れてくれる社会。
そんな社会づくりを進めなきゃ、子供たちが生きる世界はいつまでたっても狭いまま。
一般社団法人アナザーステージは、「社会を居場所にするプロジェクト」をスタートさせます。
無謀な挑戦ですが、誰かが声を上げなきゃ。やらなきゃ。
<社会を居場所にするプロジェクト>
https://www.anotherstage.net/ibashoproject