日記。
「日記を書いた方がいいよ」と言われた。
「内側にじゃなくて、外側に向けての日記ね」
言語化の練習なのだとか。
内側(自分のみ)に向けた日記では、自分だけの言葉を使いながら別にそれでも良いかと思ってしまうけれど、発信することが前提の媒体(noteの様な)で日記を綴ることは、ある種の"他者に向けた文章"を作ることであると。へー。
これは、今年出版社に受かった先輩の言葉。DJをやっている油画の先輩で、人見知りなんであんま上手く喋れないすけど、とか言いながら、小さな声で就活についてのアドバイスをめちゃくちゃ喋ってくれた。30分以内という前約束をフル無視して、1時間半くらい。ありがたいね。
ふーんと思って聞いてたけど、途中から日記ってそもそも何なのだろうと思ってきて、日記に内側と外側が存在する、ということをすんなり受け入れてしまって良いのかな、とか。だから、まずはそれについての日記を書こうかなと思った。
まず、私は日記をつけている側の人間。誰にも見せられない方の。それは、小学校3年生から今に至るまで、気付けば10年以上続いていて、大体、怒っているか、泣いているか。
勿論、毎日書いているわけではない。人間は気まぐれなので、書きたい日に書く。殴り書きの文章の終わりに、必ず年月日を記すようにして。
どうして書き始めたのか、全く思い出せないけど、グチャグチャした気持ちを片っ端から言葉にして、言葉になったそれをもう一度見て、ゆっくりと時間をかけながらグチャグチャを自分の小さな心の中に、指先から身体の奥へと染み込ませていく作業だったのかもしれない。そうやって震える心を必死に落ち着かせて、やがて静かになるのを、ただ縋るように待つ。救いとか言うと、大袈裟だなーと思うけど当時の私にはとにかく言葉にすることが、誰かを、そして自分自身を傷つけない唯一の手段だったように思う。
でも、それは確かに100%内側に向けた文章で、自分が自分に向けて書いて、自分で読んで、また書いて、の繰り返し。言葉は、書いてる時に救われて、それを読み返して、もう一度救われる。
そして、それはあくまでも日記。今日はこんな事があったとか、本当はこうするべきだったとか、最近これについて考えているのだけど、とか。勿論こんなに冷静じゃなくて、もっとぐちゃぐちゃしているし、破けたり涙で滲んでフヤフヤになっていたり、途中で夢の中に入ってしまって解読不能だったりもする。そこには家族とか友人、恋人の話があり、私を取り巻く、大切な人は大体出尽くしている。日記には必ず、自分以外の他者の存在があることに気づく。
今日を過ごしたのは自分だけど、その日は自分視点で再生されるわけで、そうなるとそこに映っているのはいつも自分以外の他者である。これは夢に自分が映らないのと同じ。(俯瞰の夢は別ね。)私だけの日記に、私以外の他者ばかり書かれていたら、それが日記の外側の部分、外側につながる部分なのではないだろうか。どうだろう。強引かも。
てか、そもそも、日記には内側と外側があるのか。ここからだった。
内側=自分 外側=自分以外 と言うイメージが先行してしまいそうで(これを書いている私自身すらも)それってとても危ういことだな、と思っているけど。
内側に向けた日記、外側に向けた日記。
私は、そもそも内側とか外側とか、そういう何かを括ってしまうことに対する違和感(それは罪悪感にも似ている)を持っている。それは自分(或いは自分を含めた共同体)が、大きな括りの一部として見られることに対する嫌悪感にも通ずる。だから、言葉の意味としては多少理解できても、幼い頃から自分を繋ぎ止めてきた日記に内側と外側の区別を付けてしまいたくない、という思いが少なからずあるんだろうな、と思う。ただ、これはあの頃の私の素直な欲求でしかなくて、根拠とかでは全くないのだけど。
日記を書くという行為自体が、そもそも内側の心の話。それは、ある意味で自分自身との会話であるから、どうやったって外向きの日記には辿り着けないと思っていた。でも、こうやって考えていくと、確かに内側の日記なのだけど、書いてあることは常に自分の外側と密接に繋がっているから、ある意味で日記は最も外側に開かれたものなのかもしれない。
これは、他者は皆、自己である。という考え方に通ずるんだけど。
日記に自分ごととして綴られる超個人的な出来事は、皆、少なからず共感可能ではあって、というのも、自分以外の他者も、みんなそれぞれ自我を持つ自分だから。だから人は、物語を共有できたり、他者に共感出来たりする。当たり前のことを言っているけど、つまり、日記を通して内側の自分自身に向けて紡いできた言葉たちは、同時に、自分以外の自分たち(他者の存在を指す)の言葉でもあるかもしれない、ということ。自分の言葉が、同時に、自分以外の自分たちの言葉だったとしたら、それらが書かれている日記は、内側だったものがいつの間にか外側になっているということにならないだろうか。
概念ぽくなってしまって、こういう時、上手に例えなどを出せたらどんなに良いだろうかと思うよね。心の言葉を書いてしまって分かりにくくてすみません。
とにかく、こうやって柔らかく内側と外側がなくなっていって(それは初めから無かったのかもしれないけど)ただ、書きたいものを書いているという状態になるのが、正直嬉しいなと思う。
こんなに長々と話すつもりは無かったんだけど、今日はこんな感じで日記について、内側や外側について、自分と自分以外の他者について、考えた。この文章は、日記とは呼んでもらえないだろうけど、今日考えたことの記録という点では日記と言っても良いのかもしれない。自分の言葉だし好きに呼んでいいか、とも思うし。
これから、書きたいなと思った時にでも開かれた媒体に日記を書いていきたいけど、初日にこの文量書いちゃうと後々続くわけがなくて面白いな。やるとしても一言日記とかになりそうだけど。まあいいか。言葉を書くのは気が向いた時で良いということにしているので、ずっと。