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小麦断ち生活記録19日め・食べる楽しみについて考える
「霊性を高める少食法」(森美智代著 徳間書店刊)を読んでいたら、
食べないということは、生活の楽しみを食べることに置かない、といったようなことが書かれていて、なるほどな、と思った。
食べることは楽しいことだとすごく思う
世の中には、超少食のひと、また、不食のひともいて、
そういうひとたちは、たしかに、食べる喜びを放棄しているのだろう。
それは、ものすごく「人並み外れた」ことのように思う。
コロナで外出自粛になってるとき「食べることしか楽しみがない」という声をよく聞いたし、わたしも小麦断ちに入るまでそんな感じだった。
食事は、生活の楽しみの多くを占める大事なものだと思っているし、
おいしいものを食べるとやっぱり幸せを感じる。
なのに、その喜びを持つことをやめるなんて。
人生つまんなくならないかな?
まあわたしは、べつに少食や不食を目指しているわけではないので、
(この本は、腸の炎症を抑えるというスープの作り方目当てで買ったから)
食べる喜びを放棄する必要はないのだけど、
でも、「生活の楽しみを食べることに置かない」という価値観には惹かれるものがある。
嗜好品をやめてわかること
わたしは、15年前にたばこをやめて、
1年前にお酒をやめた。
どちらも、ぜったいやめられないと思っていたし、
生活を彩ってくれる大事なものだと思っていたから、
それがない日常なんて考えられなかった。
でも「やめたい」と思うようになったのは、
嗜好が依存になり、止まらなくなってしまったからだ。
依存症を克服しているほかのみなさんと同じように、数え切れない挑戦と挫折を繰り返して、やっといま、酒とたばこのない生活を手に入れたのだ。
あんなに「お酒とたばこのない生活なんてクソ」と思っていたのに、
いまは「お酒やたばこに囚われてる生活がクソ」ぐらいに思ってる。
「これがないと生きていけない」というものがない生活は、ほんとうに、軽く、自由だ。
それを知ってしまったから、もう戻りたくない。
だからといって食べる喜びを手放せるか
そしていま、お酒への依存と同じように、美味しいものを食べるとやめられなくなる自分に氣づいていて、やばいんじゃないかなって思ってる。
適量でやめれない。
まったく次から次へと呆れたものだ。
わたしは依存体質なのかもしれない。
不思議なことに断食中は、
(ジュース断食とフルーツ断食しかやったことがないけど)
食べる楽しみに目がいかないので、
モードが変われば、「生活の楽しみを食べることに置かない」ことは可能なのかもしれないとも思うけれど。
今は小麦と砂糖をやめてる訳だけど、
なにかおやつ的なものが食べたくなってふかし芋を買ったら、
途中でやめられなくなってしまった。
イモくらいよかろう、とも思うけど、
今のわたしの腸は、食べ過ぎに対応できないのだ。
それなのに頭と舌は「もっと食べさせろ」って言う。
そしておなかいっぱいなのに食べてしまう。。
だからいま「おいしいものは危険」と認識中。
イモでさえやばいのだ。習慣性のある小麦や砂糖で適量を守れるわけがない。
おいしいものをご褒美にしない
おいしいものを食べなければ、そんなに食べ過ぎることもないのだけど、
ずっとこんな食事をしているわけにいかないし、どうしよう。
食事の時間を楽しみにして過ごす、というのはめっちゃ当たり前の感覚なんだけど、「おいしいもの」を楽しみにしてしまうと、どんどん依存性が高まるような感じがしてる。
ただ淡々と、栄養補給として補食するような生活になれたら、
そこには、もっと自由で軽い世界があるのだろうか。
それとも、色のない味気ない暮らしになるのだろうか。
おいしいものはおいしいものとして。
ご褒美のように自分に与えるのではなく、
たまに発生するイベントのように、やってきたその時だけ楽しむ、というように付き合えるといいな。
それが理想。