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函館で生まれて、広報と出会った僕の事

アノニギワイ公式noteとは?
ブログとオープン社内報その中間のような位置づけで、
着飾らず僕たちの素直な思いをお伝えするnoteです。
本日のライター:取締役CMO 豊島

こんにちは。株式会社アノニギワイの豊島です。

今回は、PRを兼ねて私、豊島のことをお話できればと思います。
株式会社アノニギワイでは、広報無料相談として皆様のご相談もお受けしております。本記事で興味をいただけたら持っていただけたらぜひご連絡ください。

僕と函館

僕は、1988年10月に函館で生まれました。両親が共働きだったこともあり、幼いころは、母方の祖父母の家で多くの時間を過ごしました。末っ子だったこともあり、祖父母は相当甘やかしてくれたように思います。

特に祖父は、僕の人格の多くを作ってくれました。祖父がいなければ今の僕はいないと思います。胸を張って言えます。僕は生粋のおじいちゃん子です。

そんな僕ですが、大学進学を機に函館を離れます。向かった先は、東京。成城大学に進学しました、大学はとても楽しく、勉強以上に大切なものをたくさん手に入れることができました。傾きかけたサークルを共に大学最大のサークルまで押し上げた同期、後輩とは一生の友人です。

その一方、当時の函館への想いは、複雑なモノでした。
夏休みと年末と函館に帰る。初めこそ帰るという感覚が、行くという感覚に変わっていく。帰る度に変容していくこの想いは、気持ち悪くも都会の人に脱皮していく高揚感がありました。そう函館が帰る先からわざわざ行く所に変わってしまったんです。

函館のことを客観的に見るようになったのはこの頃です。
東京から見た函館は、あまり良い状況には見えませんでした。人口流出、少子高齢化、イカの記録的不漁。

幸い大学には学ぶ環境があります。地域政策について学び、官が主導する函館の地域活性化についての卒業論文を書きました。今思えばビジネスを無視した夢と希望に満ちた独りよがりの文章でしたが、自分なりに函館のことを調べ、考え、想い、そして形にしました。函館への想いはここで一旦、区切りを迎えます。

スカイツリーで出会った広報

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大学卒業後、東京スカイツリーを運営する東武タワースカイツリー株式会社へ入社しました。そこで出会った仕事が広報です。

当時のスカイツリーは、まだオープン前。僕が入社したのは東日本大震災の3週間後、スカイツリーが現在の高さ634mに到達した2週間後でした。

このころのスカイツリーの広報はメディア対応で多忙を極め、僕も配属から数日で、フジテレビの朝の情報番組に出演することになります。(ガチガチに緊張した思い出があります。)

地震への対策や工事の進捗、入場料金の発表や危機管理。そういったメディアからのお問い合わせに対応する傍ら、地元の方への説明や一般の方からのご質問にも応えていました。広報というとテレビに出たり、記者会見やったり華やかなイメージがあるかもしれませんが、それだけでなくすべてのステークホルダーに対応する。広報の基本をスカイツリーで経験させてもらいました。

この時、伝える・交流する・理解するという業務が楽しくて、この後のキャリアを広報で過ごすことを決意します。

結局、スカイツリーには8年半在職しました。ここでの経験は、僕の財産の一つです。

再び函館と

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2020年の暮れのことです。1週間前まで元気だった祖父がなくなりました。本当に元気で、あっという間になくなったので直接お別れをいうことはできませんでした。

祖父の死は、函館についてもう一度考える機会になりました。函館とともに育ち、函館で亡くなった祖父。彼がすごく函館を愛していたというより、そこにあって当たり前なのが函館だったんだと思います。

函館が当たり前の存在であり続ける。そのために僕に何ができるだろうか。

僕にできるのは広報だけです。広報の力で函館の社会課題を解決できないか。そこで考え出したのが「いさり灯」というプロジェクトです。

地方の黒字廃業の問題をインタビュー記事で届ける。それによって事業の後継者を見つける「いさり灯」。「いさり灯」は広報的な伝え方によって問題を解決しようという取り組みです。

函館人として広報マンとして社会課題と向き合い、解決したい。それが今の僕の想いであり、この事業を始めた理由です。

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