【anon interviews#01】灰街令「世界の記憶を濃縮する」
世界の記憶を濃縮する
灰街令
わたしは以前、自身の音楽をエリック・サティの「家具の音楽」を引き継ぐ「こわれた家具の音楽」であると表現した。「こわれた家具の音楽」については、インディペンデントな音楽メディアである「スタイル & アイデア」にステートメントとして文章化したほか、同メディアから受けたインタビューでもその内実を語った。
「こわれた家具の音楽」というコンセプトを簡易的にまとめると以下のようになる。
現代の聴取環境はこわれてしまっている。都市の人工自然としてのサウンドスケープが広告という企業の意図によって暴力的に満たされているのとは対照的に、音楽家の意図によって形作られる人工物である音楽はその自律性を剥奪されている。ストリーミングサービスによる音楽聴取が主流となった現代においては、レコメンデーションシステムによるアルバム間をまたぐ自動再生、および自動再生と通信技術の向上によってますます容易となった楽曲のザッピング、各ユーザーが様々な曲を取捨選択して作ったプレイリスト(およびその共有)などによって、録音芸術の構成的なまとまりは解体され続ける。無数の楽曲データとレコメンデーションと自動再生のアマルガムはあらゆる――「家具の音楽」にはなり得ないような「表現」に満ちた――音楽たちの自然化、言うなれば「強制的家具化」を推し進めるだろう。TikTokのブーム以降、あらゆるSNSがサービスに取り入れるようになったショートムービーは、音楽の聴取における「1曲」という単位さえも変容させた。わたしたちを取り巻く音は、二重の意味で「こわれた家具」となった。「自然の過剰な人工化」、「過剰な人工の自然化」。
「こわれた家具の音楽」はこうした状況に応答する。「こわれた家具の音楽」では、楽音/音響/ノイズ、オーセンティック/レディメイド、構造/装飾などの区別は取り払われ、雑多なこわれた音楽的断片の配列が、その雑多な質感を保ったまま何らかの音楽を生み出すことが目指される。この音楽をわたしは「うるさい静けさ」と形容した。
主にクラシック-現代音楽、あるいはアンビエントの文脈から語られた「こわれた家具の音楽」のコンセプトは、わたしの音楽家としてのスタート地点であるライブ『こわれた家具のアーキテクツ』にはじまり、サントリー芸術財団『日本の作曲2020-2022』に選出(選者: 長木誠司)された「De-S/N_T/S――ピアノとモジュラーシンセサイザーのための」によって一旦の完成に至ったと考えている。前者は都市のサウンドスケープの音楽化の試みであり、後者はひとつの音楽の複数の「再演」の欠片をひとつの演奏あるいは音楽へと結晶化させる試みだった。
わたしの作曲上の姿勢はこの頃のものを現在も引き継いでいる。にもかかわらず、近年のわたしの音楽はこの頃のものとは別種の空気を纏うようになってきている。わたしは、いまの自身の音楽を別の言葉で整理する必要を感じている。
先日2025年1月15日にanon recordsというインターネットレーベルから「Memorized Memorandum」という楽曲をリリースした。この音楽を聴いた佐々木敦氏から、J・G・バラードの “condensed novel” になぞらえた「濃縮音楽」という用語が提案された。わたしはこの命名をとても嬉しく思った。この言葉は近年わたしが自身の音楽について考えていたことを端的に言い当てているように思えたからだ。ではわたしは何を濃縮して音楽にしようとしているのか。大げさな語彙を使えばそれは「世界の記憶」だ。
「こわれた家具の音楽」がすでにそうだったように、わたしの音楽では、様々な音の断片が楽音/音響/ノイズ、オーセンティック/レディメイド、構造/装飾などの区別なく用いられる。それに加えて、わたしの音楽では、現在に近づくほど、多様な時間や由来を含みこんだ音素材が配列されるようになってきている。それらの音は元々五線譜に書いたものだったり、DAW上で打ち込んだものだったり、楽器を演奏したものだったり、知り合いの演奏家に楽譜やインストラクションを渡して演奏してもらったものだったり、Splice上のサンプリング素材だったりする。別の自身の楽曲の断片であることもあれば、過去に作曲した音楽の再演として、音の断片を再-作曲することもある。なんらかの歴史的な音楽形式や構造を外枠として素材とすることもある。このことは音楽を音源として仕上げる際のみならず、譜面上での作曲の場合でも同様である。
こうした変化に加えて、音楽の配列の在り方にも変容がみられる。かつてのわたしは剥き出しのこわれた音の瓦礫のなかに音楽が宿るのを待つような時間を形成していたように思う。近年のわたしはより強く、また濃密に音の「音楽化」を目指すようになってきている。具体的には、中世音楽のホケトゥスを複雑化・複層化したような、フレーズ感や拍節感を感じさせる配列がより支配的になってきている。かつてから、わたしは多様な音素材をコラージュ的に併存させるという観念をトップダウンに重視していたわけではなかった。ひとつひとつの音楽を様々な方法で作曲していくなかで、結果としてそうした音たちの併存にリアリティを覚えたというだけだった。おそらく近年のわたしは、よりマスでディファクトスタンダードな音楽的時間やその聴取のなかに、無数の時間や由来を持つ音たちを流れ込ませたいと思っている。それは括弧付きの「音楽」のセキュリティホールを探す作業とも言えるかもしれない。
こうした変化が明確に結実化したのは、OMOIDE RABELからリリースした「Maniera for Segmented Memories」からだろう。わたしの音楽はますます、雑多な時間と起源と手法に基づく音たちの瓦礫を、ますます音楽としてオーケストレートするようになってきている。わたしは作曲をする時、具体的な音の断片や部分からはじめて音楽を全体に広げていく。全体の構想を先に描くことはない。ある断片とある断片が音楽として繋がる時、わたしはそこに宿る音楽がひとつひとつの断片のなかに予め含まれていたように感じる。もちろん、これは記憶の誤作動であり、遡行的に潜在性を音の断片に見出しているに過ぎない。実際はそれらの断片は全く異なる出自を持っている。無数の断片には、楽音構造、音響構造、音表象、作曲者や演奏者の身体運動や思考、マイクやアンプなどのその音が経てきたメディウムの質感といった無数の記憶が刻まれている。それらの来歴を完全に復元することはできない。わたしは形式としてのノスタルジーに惹かれている。ノスタルジーと言っても「日本の夏」のような共同の記憶や幻想に訴えるものとは違う。音がまだ何らかのイメージやその由来らしきものを示すが、断片的なそれらから時間の修復ができないような経験。ノスタルジーの対象ではなく、失われた何かを想起しようとするノスタルジーのプロセスそのものに惹かれている。時間の繋ぎ目が解けてしまったような音の切れ端たちを、もう一度ひとつの音楽として形式化すること。しかしその音楽は無数の別々の時間の浸透によって軋んでいるだろう。一方でわたしは、そもそも音楽というものの根源には、「その瞬間には鳴っていない音の記憶が参照されること」があるのではないかと考えるようになった。
かつてわたしは、「こわれた家具の音楽」を、「家具の音楽」やいくつかの現代音楽やアンビエントミュージックとの関係から非-目的的時間の新しい姿と考えていた。いまわたしは、自身の音楽を「複-目的的時間」、あるいは「超-目的的時間」として説明できるのではないかと感じている。あたかも天国のような時計が止まった時間ではなく、無数の時計が同時に動き続けているような時間。この音楽は「世界の記憶」を素材としたポリフォニーとも言えるかもしれない。わたしは世界の記憶の欠片たちが失われていっていると考えているし、それらを「濃縮」によって、何らかの形で救い出したいと感じているのかもしれない。
灰街令インタビュー
音楽との出会い
——まずは簡単に来歴を教えてください。
作曲家の灰街令です。Windows95と同年生まれです。学部から大学院まで国立音楽大学に所属し、現在博士課程に在籍しています。
——作曲で博士課程まで進むという選択をする上で葛藤などはありましたか?
奨学金等の借金もあるわりには、将来のことを考えていなかったので不安はありませんでした。ただ、最近は不安を感じます。というのもクラシック-現代音楽の作曲家で作曲で生活をしている人がほぼいないからです。彼らは大学のポストを得ることで生計を立てています。かなり有名な作曲家でさえ、助成金がなければ個展を開いても赤字すれすれです。当然音源も売れません。しかし、わたしはその大学を中心に閉鎖された、いわゆる括弧付きの「芸術音楽」の状況を変えたい、というか生活していくために変えざるを得ないと思っています。音楽大学は極めて厳しい状況で、たとえばピアニストの辻井伸行さんを輩出した上野学園大学は2021年度以降学生の募集を停止しました。有名な私立音大ですら、ここ数年は定員割れすれすれです。
——本来であればクラシック音楽で生計を立てるというのが理想なんですか?
いえ、そもそも先細りしていく音楽大学や文化事業や同業者の方だけ向いていて良い音楽ができるかは怪しいです。わたしはクラシック-現代音楽の世界での実践を続けつつ、そこで得たものをより広いマーケットに展開したいと思っているし、すこしずつそうした活動をしているつもりです。
——昨年OMOIDE LABELさんから出された「Maniera for Segmented Memories」、そして今回anon recordsから出させていただいた「Memorized Memorandum」のようなエレクトロニカ風な曲は以前から作られていたんですか?それとも依頼を受けて必要に駆られて作ったのでしょうか?
いわゆるエレクトロアコースティックのような曲は多く作っていましたが、エレクトロニカのような曲はSoundCloudにあげるくらいでした。OMOIDE LABELからのリリース以降、特に力を入れています。
——『スタイル&アイデア』のインタビュー記事では高校生の頃から作曲をしてたとおっしゃられていましたが、その頃はエレクトロニカというか、ニコニコ動画的な音楽を作られてたんですか?
ゲーム音楽風の音楽を作っていました。 高校生の頃から作曲をしていたとはいえ、活動を対外的に本格的にスタートしたのは2019年の6月、大学院修士課程2年生の頃からです。
——その時にDAWとかDTMを使うようになったという感じなんですね。 勝手に音楽家の家系の人というイメージを抱いていたんですが、そういうわけではない?
わたしの父親は大工なのですが、 世代なのかジャズが好きでした。 その関係で電子ピアノも家にあったというのはありますが、まったく音楽家の家系ではありません。
——灰街さん自身は幼少期の頃、音楽でこれは好きだなっていうのはありました?ピンと来るというか。
エレクトロニカはおそらく最初に気になった音楽だと思います。特にGo-qualiaが59aliaという名義でニコニコ動画にアップしていたアニソンのAkufen風のリミックスが最初に好きになった音楽かもしれません。
——初音ミクとか、ボーカロイドは使ってみたりしてたんですか?
初音ミクは使っていなかったです。これからそうした曲を作ってみても良いかもしれません。ボカロ曲で言うと、ATOLSというアーティストの音楽は好きでした。
道具との戯れがコラージュを試行=志向する
——制作環境について簡単に教えていただけますか?
DAWはcakewalkを使っています。SONARという名前だった頃からもう15年近く使っています。譜面作曲をする時はシベリウスというソフトの古いバージョンを使っています。Spliceのようなサービスでサンプリング素材を得ることもあるし、ピアノやアナログシンセを演奏することもあります。簡単なプログラムを組む場合もあります。知り合いの演奏家に演奏をしてもらってそれを音素材とすることもあります。
——以前Xのポストで、プラグインを一定量買ってきたと書かれていましたけれど、結構いろいろ試されているんですね。
打ち込み用のソフトシンセやプラグインもそこそこ買う方です。さいきん買ったものだとFloating Pointsなんかも導入しはじめているSynplant2というソフトシンセが良かったです。
——ふだん、曲を作る際の儀式や段取りみたいなのはありますか?
わたしの作曲法は手や耳の技術的にもテクノロジーやメディア的にも、かなり雑多です。方法自体がコラージュ的と言えるかもしれません。しかし、まず何らかの音楽的な断片や素材を作ったり用意したりするところから始めて曲を構成するというのが、ある意味共通する段取りと言えるかもしれません。新しく入手したツールを試していくうちに曲になるということもあります。先に全体の構想を描くことはありません。
——今回の曲がどういうふうに生まれたか教えてください。
先ほどお答えしたように制作しました。依頼をお受けした際に、参考としてanon press/recordsの皆さんが普段聴いている音楽についてわたしから質問をしたので、そこでご回答いただいたアーティストの音楽から何かしらの影響がおよんでいるかもしれませんが、具体的にそれを意識したというわけではありません。
音を出す、思い出す、世界の記憶を濃縮するために
——今回提供していただいたステートメントでは、ご自身の音楽について「濃縮」が一つのテーマになっているとおっしゃっていますね。
今回、anon recordsからリリースしていただいた曲について、佐々木敦氏がXにて、J・G・バラード由来の「濃縮音楽(condensed music)」という言葉を用いて評されました。「濃縮」という言葉はそこから来ています。さいきんは複数の時間を圧縮してひとつの音楽にするということを考えていたので、そのことを端的に言い表した言葉だと思い、嬉しく感じました。
複数の時間というのは、先ほど言ったように多様な手法を用いるということとも関係します。様々な音響構造だったり、あるいはリズム構造だったり、奏者の身体イメージだったり、音表象の持つ文脈だったり、メディウム的質感(たとえばマイクや録音された空間の質感の差異) だったりといった複数の側面で複数の来歴を持つ音楽的断片が、ひとつの音楽の中に併存しているということです。
——「こわれた家具の音楽」など、灰街さんの楽曲に付随するステートメントには特徴的なキーワードが頻出しますよね。これらの概念はどのように浮かんでくるのでしょう? 作曲中のインタラクションを通して芽吹くものなのか、それとも本などを通じて先に思想として埋め込まれていたものが、都度アウトプットされるのか。
自分の音楽について考えることに関しても、あるいは音楽というものについて考えることに関しても、わたしは自身の実践が先にあります。もちろん考えを深めていく上で様々な研究を参照します。以前の「こわれた家具の音楽」というコンセプトではかなり限定された文脈で、特にサティに依存する形で自身の作品を説明していました。そこからわたしの音楽的な態度が大きく変わったとは思っていませんが音楽のテクスチャは変わってきました。 今は自身の音楽を考える上で、音楽一般を人間が情報処理する時に起きている記憶のプロセスといった、より広い観点から考えるようにはなりました。それは自身の実践を通してそのようになっていったというものでもあるし、執筆中の博士論文で近藤譲という作曲家を研究するなかで変わっていった部分でもあります。
——今回の作品のステートメントに登場する「記憶」というキーワードについてもうかがえますか?
わたしは音楽の根源には「思い出す」という現象があると考えています。 たとえば、ある音楽が日常の音から切り離されて、作品とか、あるいは音楽的な行為とかと見なされる時に、日常の音と音楽とを切り分けているのが「思い出す」というプロセスだと思っているからです。音楽を形作る反復構造はまさに「思い出し」ですが 、明瞭な反復でなくても、あるまとまりが感じられる時というのは、なんらかのパラメータに反復がある。そのままフレーズが反復しているわけではなくても、たとえば一拍目にアタックが来るというのが繰り返されているとか。ひとつの作品のなかで出来事が思い出され続けることで、単なる音と区別されるものとしての音楽の存在があらわれてくるわけです。
あるいは伝統音楽のなかには、その共同体が持っている音楽的な語彙の記憶、こうした音の連なりを音楽と呼ぶ……といった積み重ねの記憶を参照して音楽を即興的に作り上げるものもあります。
一方で、わたしが関心を持っているのは、思い出そうとしてるけれど、うまく思い出せないという状態です。それは音楽と音楽ではないものの境界に興味があるということかもしれません。何かを思い出そうとするのだけど思い出せない。「日本の夏」のような典型的なノスタルジーの対象に興味があるのではなく、完全には思い出せないが何かのイメージが見えそうな気がするという経験によって、思い出すという形式自体が作品化されるような音楽を作ろうとしています。
——灰街さんの音楽には様々な痕跡が仕込まれているというか、鑑賞者に何かを思い出させるためのトリガー的な音が無数に散らばっているように感じています。 実際に今回の楽曲についても、僕(永良)が「Dream Theaterのギターっぽい」と思った一方で、批評家の北出栞さんはセカイ系の文脈とも紐付けて聴いていらっしゃるなど、それぞれまったく別の捉え方をしていたのが印象的でした。楽曲に触発された無数の思考が情報空間を並走している。そのおかげで、非常に間口の広い楽曲になっているのではないかと感じます。
そのように聴いてもらえると嬉しく思います。先ほどわたしは思い出せないことに関心があると言いましたが、西洋芸術と関係が深い音楽全般はそもそも、伝統的には、思い出すことがある程度難しい時に面白みを感じるようになっていると思うんですね。作品内の要素の構造的な反復(=記憶の参照)の展開が簡単に分かってしまって、結果として次にくる展開も読めてしまう時、人はその音楽に面白みを感じなくなる。音楽の構成がうまく掴めない、つまりその音楽内の過去を思い出すという作業にある程度の負荷がかかる時に人は面白みを感じることが多いと思います。それは作品外の記憶の参照においても同じです。記憶の参照に負荷がかかる、 ラグが生じるといった時に、音楽は新鮮で認知的なリソースを割くべきものと判断される。わたしはそういった、ある程度は音楽とその聴取一般に言えるだろうことを意識的に考えて先端化させようとしているのだと思います。
——面白いですね。おのおのが持ってる記憶から、引き出される予期みたいなものに負荷がかかって、それがトリガーになっていろんなものが発生していく。
そうです。わたしは音楽的時間一般を、樹木や建築のような構造物を辿っていくものではなく、記憶がネットワークを生成していくモデルで考えています。
「うるさい静けさ」と「静かなうるささ」
——ふたたび『スタイル&アイデア』のインタビューからになりますが、「うるさい静けさ」という言葉も印象的でした。というのも、最近の『ele-king』の特集が「ミニマリズム」だったのですね。荒っぽい二分法を承知で言えば、現在のエクスペリメンタルなポップミュージックの潮流にはアンビエントやドローンなどの「ミニマリズム」かハイパーポップ的な「マキシマリズム」かという対立があるとして、灰街さんの言葉や音楽からは単純なその二分法に収まらないものを感じます。その点、何か考えていることはあるでしょうか?
ハイパーポップはコード進行やフレーズの構成はかなりシンプルなものも多いので、ハイパーポップがマキシマリズムというのは、おそらく音色の多様さのことですよね。わたしが主に譜面作曲において最も影響を受けた作曲家の近藤譲はテクスチャの変化は極めて少ないです。ただ構造が複雑、というよりも曖昧なため、認知される情報量(これはシャノン的な音と音の連なりの蓋然性の低さの度合いという意味での情報量です)は極めて多いです。わたしは情報量が多い音楽を作りたいと思っています(付け加えるならば情報量が多くかつ人が強い快を感じてしまうようなその巨大な謎に惹きつけられる音楽です)。人間の認知のことを考慮に入れると、そのためにはむしろ見かけのマキシマリズムや多様さや複雑さを捨て去ることもあります。たとえばカオスな音響はそれがカッコ付きの「カオス」な音響のまとまりとして聴取された瞬間に情報量が大きく損なわれます。つまり予測可能なものとなるわけです。逆にまったく楽理的な構造を持たないドローンのような音楽がその単純さ故に細かい質感の変化へと耳を向かわせることもあります。ここでは聴取の系の変換のようなものが起こっているようにも思えます。そしてこのような反転がさらに反転することもあります。これは単純な事例ですが、わたしはこうした問題について常に考えて作曲しています。そのことが、おっしゃられた二分法からの逸脱を特徴づけているのかもしれません。
——マキシマリズムはむしろ聴取におけるエントロピーを下げている、という指摘はすごく面白いですね。人間の認知限界を超えると「あ、カオスだな」と反射的に括られてしまい、それ以上先を味わおうというモチベーションがなくなってしまうと。
そうです。「うるさい静けさ」についてですが、たとえば松尾芭蕉の有名な俳句に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」というものがありますよね。 あれは、わたしには蝉の非常にノイジーな声が重なった結果、カオスな音響が生じ、結果として聴覚上の情報量が減少している状態のように感じられます。そう考えるとわたしは、「うるさい静けさ」と、「静かなうるささ」を考えながら、そのなかで情報の巨大な塊としての音楽を作ろうとしているのかもしれせん。
天国には時計がない
——シンパシーを覚える、または興味深い作曲家やアーティストはいますか? 個人的な興味で、じゃっかん恣意的な固有名の選択になって申し訳ないですが、たとえば近年注目を集めているKali Maloneは、平均律以外の様々な調律を駆使しながら独特のオルガンドローンを作り上げており、灰街さんとはまた別のアプローチで西洋音楽の伝統と連続しながらもそれを拡張するような試みをしてるように思えます。このような試みについてどう思うでしょうか。
Kali Malone は最新作でも平均律以前の古典調律に基づくポリフォニックな音楽を展開していて興味深かったです。テクスチャが中世・ルネサンス音楽ですが、対位法的に中世・ルネサンス的でない動きもしているので並行世界の中世・ルネサンス音楽に聴こえます。アンビエント周辺で言うとLaurel Haloのいくつかの作品の、フレージングや拍のある時間と拍のない時間、伝統的音楽の時間と音響そのものの時間と言っても良いかもしれませんが、そうした時間が混ざり合った在り方には興味を惹かれます。また、それこそ多様な要素を短い時間に「濃縮」したような音楽を作るわたしと同世代、あるいはより若いアーティストの音楽には関心を持っています。たとえばIglooghostなどです。
——アンビエントやドローンと灰街さんの音楽との間に差異があるとすれば、それはどのようなものでしょうか?
意外に思われるかもしれませんが、わたしはドローン音楽のほとんどにはシンパシーを感じていません。それは言うなれば時計のない時間の音楽です。それは中世・ルネサンスの宗教音楽に明瞭には楽節構造的な分節がみられないことと似ています。天国には時計がないわけです。比喩的に言うならばわたしが関心があるのは、バラバラになった無数の時間と空間が作品という形でまとめられているような音楽です。円城塔の小説ではそんな時間が描かれていたかもしれません。時計のない時間が非-目的的な時間だとしたら、わたしの音楽は超-目的的時間と呼ぶべきかもしれません。
——先に名前を出したKali Malobeは最新作でアガンベンを引用しています。灰街さんは哲学や思想などにも造詣が深いと思うのですが、特定の思想家をリファレンス、あるいはインスピレーション源にすることはありますか?
影響が間接的に反映されることはあっても、具体的なリファレンスとすることはまったくありません。思想や哲学が持つ具体的な芸術実践に対する力は、何らかの実践を生み出したり補強するという形ではなく、むしろ今までできていたことができなくなるという症状的な形であらわれるものかなとも思っています。実践の具体的な側面は具体的な実践から生まれると考えています。
——anon recordsはテキスト表現を主として取りあつかうanon pressと同一の編集部で運営していますが、こうした実験的なメディア実践に対する所感をお聞かせください。
とても興味深いと思います。こうしたインディペンデントだったりオルタナティブだったりする試みがもっとスケールしていったら良いなと思っています。
——最後の質問です。今後はアルバムリリースへ向けて動いていくのでしょうか?
あるレーベルからリリース予定のエレクトロアコースティック中心のアルバムは現在作っています。それと並行してシングルをこれからもどんどん出していきたいですね。
<聞き手>てーく+永良新
<インタビュー構成>anon press編集部
「Memorized Memorandum」各種サブスクリプション
https://linkco.re/DeBCSPH4
◆著者プロフィール
*次回作の公開は2025年2月5日(水)18:00を予定しています。
*〈anon future magazine〉を購読いただくと、過去の有料記事を含めた〈anon press〉が発信するすべての作品をご覧いただけます。