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おじいちゃんが倒れていた話

祖母と京都という土地について

母の出身地である京都には今は祖母が一人で暮らしており、僕は就職した後も出張にかこつけて度々訪れていた。祖父が他界した後、一人暮らしの祖母の様子を見るという面もあったが、単純に祖母と京都という土地が好きだった。

その日も京都に訪れていた。昔祖父が使っていたベッドから這い出たらだいたい午前10時頃だった。とっくに起きていた祖母は怠け者の僕を叱ることもなく(諦められただけかもしれない)、コーヒーを淹れてくれた。テレビによると台風が来ているらしい。僕は朝が弱い上に気圧にも弱いので、この日はすこぶる寝起きが悪かった。どうでもいいが日頃あまりテレビを見ないと天気に疎くなってしまう気がする。電車内の液晶やPCの右下の所など、天気情報っていろんなところに溢れているような気もするけれど、なぜか僕の目には入らないらしい。
カフェインで頭痛を抑えながら今日の予定をどうしようか……と考えたけれど思い浮かばず、犬(可愛い)を抱いてうとうとしていると昼になってしまった。昔より食が細くなった祖母をぼんやり眺めながら素麺を啜っていると、少し雨足が収まってきた気がする。どうやら後1時間もすれば雨も止むらしい。僕は旅先で友人に手紙を書くという持病(微妙に迷惑そうな顔をされて楽しいのだ)の発作が出たので、四条の喫茶店で一筆カチこむことにした。祖母からお使いを預かり、家を出て四条行きのバスに乗り込む。じとっとしたシートに座ると、外を見た。僕は乗り物酔いをするので、車の中で本やケータイは見たくない。雨足は未だ強く窓を叩いていた。

狭街、京都

少し脱線するけれど、京都の住宅街というのは、なんというかとても狭い。家の前に庭があって、とか駐車場があって、ではなく敷地ギリギリまで建屋が立っている感じだ。電柱も多いし、ちょろっとした川のような用水路のようなものもそこら中にあって、狭い道が多い。そのくせよく市バスが走っており、狭い街中をゆっくりと縫うように走る。僕だったら絶対に運転したくない。

そんな狭街(せままち)をバス車内からぼけっと眺めていると、時折家と家の間に小さい畑が現れることがある。まぁ他にも駐車場やらお地蔵さんやら色々あるのだが、近距離スレスレにある家がパッと無くなって、開けた視界に畑が見えたりするのだ。狭街(せままち)らしく畑も小さくて、ウネが四つくらいしかなかったりする。そんなのまで見えるほどバスはゆっくり走っている、とも言える。だから2つ目のウネと3つ目のウネの間におじいちゃんが倒れているのははっきり見えた。多分周りに人はおらず、おじいちゃんは動いてなかった、と思う。暗幕のように現れた隣家が視界を遮ってしまったため、それ以上のことは分からなかった。

え、おじいちゃん、倒れてね……?

僕は昔から大した熱も信念も持てない人間だったが、そこそこの年齢になってから、動くべき時に動ける人間でありたいと思うようになった。情けない話なのだが、僕は自己肯定感がとても低いようなのだ。これは本当に情けないと思っているのだが、どうにも治し方が分からない。自己肯定感が低いと傷ついた時のダメージも大きい。あの時こうしていれば、もっとこうできていれば、という思いが人並み以上に強いような気がする。
動くべき時という瞬間が過去にあって、そこで動けた自分を想像してみる。めっちゃかっこいいじゃん……自分のことしゅきになれるかも……?でも今の僕には瞬発力が足りない。動くか動かないかを迷っていてはならない。予め「動く」と決めておけばいいんだ。なんて考えを持つようになった。

しかし、いざ実際に倒れているおじいちゃんを目撃した僕は、それはそれは動揺していた。今にして思えば人間が倒れている、最悪の場合死んでいるかもしれないというシーンが急に現れたのだから、動揺くらいするだろう。でもこの時の僕はそんなことには思い至らず、ただ動くべき時が来てしまったということにびびっていた。そんな姿、思い出したらまた自己肯定感が下がったじゃないか……あの時の自分ダサかったなぁ。自炊とかしてコツコツ高めた肯定感が……。いや自炊なんかでは高まらないけども。

少々脱線してしまったので話を戻すが、僕は京都の住宅街に詳しくないので、ここがどこだか分かっていない。降りてしまったらこの土砂降りの中、次のバスまでどれだけかかるのかも不明だ。そもそも、おじいちゃんの周りには本当に誰もいなかったのか?確かに雨が酷くて人通りはなかったけど……でもこれってやっぱり降りたほうがいいよな……行って何もなかったならそれで良かったじゃないか。その程度の恥、生きていればしょっちゅうあるじゃないか。動くって決めてただろ。いやでも……。さっさと行け。黙って降りろボケナス。そんな感じだった。

走れるタイプのボケナス

結構勇気を出して降車ボタンを押すと、大体50メートルくらい先でバスは止まった。この間のもどかしさというか恥ずかしさというか。バスを降りたが道には傘を差すスペースが無い。仕方なく雨に打たれながら走って戻ったところ、丁度近くを通りかかったらしい女性が畑の近くでオロオロしていた。女性は近くに夫がいるというので呼びに行ってもらい、入れ違いで来てくれた通行人の男性と一緒におじいちゃんのところに向かった。幸いおじいちゃんには意識があった。どうやら畑仕事中にぬかるみに足を取られ転んでしまったらしい。骨折や捻挫などはなさそうに見えるが、どうしても体が起こせない。うわごとのように何度も足が滑ったと繰り返すおじいちゃんから、何とか名前を聞き出した。この年齢と体力では、家は遠くないだろう。まずご家族に伝えなければと思い家の場所を聞くと、車道の反対側を指差して、あっち……と言った。いや、あっちって……。

2,3回家の特徴を聞いたがそれ以上情報が得られず、おじいちゃんから聞いた名前を頼りに表札を探して走り回った。悲しいかな、おじいちゃんの指先にあったのは家ではなく、T字路の縦棒の部分、つまり道だったので、道路沿いの家を何軒も見て回るはめになった。簡単には見つからなかった。じじいめ、ちゃんと説明しろ。人間の命がかかっているんだぞ。表札がない家も数軒あったので試しにチャイムを鳴らしたけれど、番犬に吠えられただけで人はいなかった。3軒目でようやくおばあちゃんが出てきてくれ、たまたまその人がおじいちゃんの配偶者だった。おじいちゃんの状況を伝えるとかなり慌てた様子だったが、意識も会話も問題ないことを伝えると少しだけ落ち着いたようだった。急いで畑に戻ると男性が二人付いてくれており、おばあちゃんの依頼でおじいちゃんをガレージまで運んだ。

老夫婦の娘さんも現れ、怪我はないか?救急車を呼ぶか?など話していたところ、どうやら過去にも何度か同じことがあったらしい。おじいちゃんの様子とその時の経験から救急車は呼ばない、と判断された。頭を打っていないかだけが心配だったけれど、どの立場で物を言えるかと考えてしまい、懸念だけ伝えてあとは予定どおりご家族に任せることにした。
もう家族に心配かけちゃだめだよ、なんておじいちゃんと話していると、かなり雨足が弱まってきた。玄関口の方でおばあちゃんが救助にあたっていた男性に何か、封筒のようなものを渡しているのが見えた。良くない流れだと思った。多分中身は現金だ。娘さんにすみませんが急ぐのでと詫び、おじいちゃんに挨拶をして立ち去ることにした。僕は自己肯定感を高めることで勝手に気持ちよくなりたいだけなのに、お礼を、しかも金銭でもらうのは正直いって座りが悪い。それにこういった行為は無償であるべきだ。僕は嫌なところでこういう幻想を抱いている部分がある。多少自覚もあるのだが、人に迷惑をかけないうちはいいかとも思っている。

走れるタイプのおばぁ

さて、僕が逃げるように早足で歩いていると、後ろからパタパタと突っ掛けがコンクリートを叩く音がする。ちょっと逡巡したが諦めて振り向くと、やっぱりおばあちゃんだった。雨はまだ降っているのに傘も差さず走ってきてくれて、これは感謝の形だから、と先ほど見たのと同じ封筒を僕に押しつけるように差し出した。何度か断ったもののいよいよ断るのが失礼に当たるのではと思われ、僕はそれを受け取ってしまった。少しだけ話をしながらおばあちゃんと相合傘をして家まで送った。短い距離だったし何を話したのかは覚えていないけれど、遠くでは日が差し始めていて明るくなっていた。受け取った封筒には強く握ってできた皺と土の痕があった。

ボケナスの生態

なんとなくバスを降りた地点まで向かいながら先ほどまでのことを反芻する。なにか腑に落ちない感じというか、気持ちが悪い。でも今日の僕はカッコ良かったのではないか?いやカッコ良くはなかったか……。バス車内でもかなりみっともなかったし……。ま、まぁとはいえ悪くなかったんじゃないか?とも思う。しかし、仮に僕がバスを降りなかったとしてもおじいちゃんの命に別状はなかっただろう。極論、必要なかったのだ。余計なお世話とまでは言わないが、多少押し付けがましさがあったかもしれない。世の中、親切な人はたくさんいる。僕もまた少し親切が出来ただけの普通の人間なのだ。もっと言えばエゴで動いていた。僕がおばあちゃんのお礼を素直に受け取れなかったのはそういう認識があったからかもしれない。
じゃあやらなければよかったか?全身ずぶ濡れになってまでやる必要があったか、と考えると、それはやって良かったと思う。つまり僕はおじいちゃんの無事やおばあちゃんからの感謝以上に、動くべき時に動くことができた、という事を喜んでいたのだ。そう自覚した時に僕は先ほどまでと打って変わって晴れやかな気持ちになった。自己肯定したのだ。冗談のようだけど、生まれて初めて両親に対して胸を張れると思った。息子産んで良かったなって。あと僕が生きてる事って社会から見て意味がある、つまり生きてていいんだなって思った。親からも社会からも肯定されたような気持ちになった。陰に対して陽がはっきりと映るように、この時の僕は躁状態に近かったのかもしれない。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。日頃満たされない自己肯定感が一気に満たされるのを感じた。正直今思い出してもかなり気持ち悪い。しかもおばあちゃんと別れた後に感じていた気持ち悪さは、慣れない自己肯定に狼狽していたのだ。僕はこれをかなりグロ話だと思っているのであまり思い出したくないのだが、一方で僕という人間をよく表しているとも思う。あまつさえこうしてSNSに投稿しているのだから、如何ともし難い人間である。まぁ誰が読むというわけでもないのだけれど。

最後に

結局あの日は喫茶店までたどり着いたものの、手紙は書かなかった。よく見たら靴も服も泥だらけで恥ずかしくなってしまい、そそくさとお暇したのだ。躁だと周りが見えていない。頼んだコーヒーが運ばれてくるまでの間、何となくおばあちゃんがくれた封筒を眺めていた。中には5千円札が一枚入っていた。その金額が適切なのか僕には分からない。多分高いのだろうと思う。その5千円に相応しい使い道が思い当たらず、封筒ごと今もクローゼットの中にある。年に一度くらいその封筒があった事を思い出しては、あの日のことをぼんやり考える。生まれてから30年近く経つというのに、正しさも感謝の受け取りかたも、何も分からない人間になってしまった。それでも僕は生きていて、動くべき時はまた来るかもしれない。鯨が息継ぎをするように、僕もそこに実る自己肯定感をたまには摂取しなければいけない。それは怖いことだが、僕が生きていくには必要なことなのだ。
とはいえ何事もないのが一番だけども。あのおじいちゃんおばあちゃん元気かなぁ。

おわり