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【短編小説】都市の断片:もうひとつの土曜日と、その次と。


 背中が痛くて目が覚めた。どうやらテーブルに突っ伏したまま寝てしまったようだ。
 身体をぐっと反らすと、バキバキと不健康そうな、しかし心地よい音が鳴った。

 部屋はずいぶんと薄暗く、外はもう夕方だった。
 窓に目をやると、西日が鋭く差し込んでいて、眩しさに目を細める。
 夕陽を眺めるのが好きだから、と選んだ西向きの部屋。友人からはやめときなよ、と言われたけど、私は結構気に入っていた。ーーー以前までは。

 橙色のレーザービームのような陽は、ちょうど部屋の中央に置かれたローテーブルを斜めに切り、部屋を明暗にくっきり分けていた。私は暗い方に正座で座っていた。
 手を伸ばして、陽だまりにそっとふれる。ぬくもりがあった。

 あの時も私は、暗い方にいた。夕方だった。眩しかった。私の手は彼に届かず、そのまま虚しく空を切った。
 思い出してしまうから、私は夕陽を見ると悲しくなってしまうのだった。

 なんだかなぁと、意味もなく呟き、スマホを見る。11月の土曜日、16時半。
 昼過ぎに塩ラーメンを茹で、食べた後すぐに眠くなってしまって、うとうとし始めたのを思い出す。
 そのまま眠りに落ちてから5時間近く、テーブルに突っ伏していたことになる。

 そりゃあ痛いわ、と手で背中を摩りながら、もう片方の手でスマホを操作し、radikoのアプリを開く。
 適当にFMを流し、部屋の静けさを埋める。
 愉快なCMの後、女性DJが軽妙洒脱にトークを繰り広げる。寂しい気持ちが紛れていい。

 こんなふうに、何かで感情を穴埋めしなければやっていけない程、自分は弱い人間だったろうか。
 ふとそんな思いがよぎり、また寂しくなる。心の中がぐちゃぐちゃになる。嫌だな。

 気分転換に掃除でもしようかと思ったが、私の部屋は恐ろしいほど綺麗に片付いていた。
 向こうの壁を染める西日の色が少し弱まって、徐々にこっち側の暗がりに近づいていく。そのうち境界がなくなって、真っ暗になるその瞬間を、私はほとんど祈るような気持ちで待った。

 「続いては、ラジオネーム『チョコバニラ』さんからのお便りです」

 不意にDJの声が耳に入ってくる。リスナーから寄せられたメールを読み上げているようだ。

 「先日、嬉しいことがあったので、報告させてください。先週の土曜日に彼氏の部屋に遊びに行った日のことです。二人でテレビを見ている時、気がつくと私はちゃぶ台の上に突っ伏して寝てしまいました。はっと目を覚ますと、ちゃぶ台の上には彼がいつも買っているコーヒー豆が散らばっていました。よく見ると、それは彼の名字の形に並べられていたのです」

 私はラジオに耳を傾けながら立ち上がり、冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターのペットボトルを取り出して飲む。

 「『これは何?』と彼の顔を見ると、彼ははにかみながら、『俺、この名字好きなんだよね。だから、君もこの名字になってくれたら嬉しいなって思ってるんだ』と言いました。私は一瞬、なんのことだかわからなかったのですが、すぐに意味を理解しました。そうです、彼は私にプロポーズしてくれたのです! 私は嬉しさのあまり涙を流しながら……」

 なんじゃこれ。しょうもな。
 思わず声に出して言う。言った後、少しだけ後悔する。ただの嫉妬だと、明らかにわかっているから。

 でも、どうなのかね。
 コーヒー豆で自分の名字を書いて、一緒になってくれ、ってか。
 それはおしゃれなのかダサいのか。私にはよくわからないな。
 というか、今の時代において、男性の名字になるのが当たり前という価値観はどうなのか。もっとこう、お互いに話し合ったりしながら決めた方がいいのではないだろうか。

 と、いくら私がいちゃもんを付けたところで、彼女らが幸福なことは揺るがないのだ。

 結婚、してみたかったな。と、ほろりと思う。
 私を選んでくれた彼。そして私が捨てたようなふりして、本当は私を捨てた彼。
 そろそろ黄昏が忍び寄り、あっち側とこっち側がゆるやかに混ざり合っていく。


 彼、上垣さんとは、学生時代に知り合った。
 私はまだ19歳で、上垣さんは26歳だった。駅前のスーパーの向かいにある本屋でアルバイトを始めた時、社員として働いていたのが上垣さんだった。

 初めてのアルバイトで右も左もわからない私を、髪の毛の薄い店長はいつも厳しく叱り、落ち込ませた。
 上垣さんはそんな私のところに時々やって来て、「気にしないでいいよ、あのハゲのことなんか」と小さく言ってくれた。店長はもちろん、他の社員やアルバイトにも気付かれないように、こっそり、そっと。上垣さんがそんなことをするのは、私だけだった。

 上垣さんは、ひょろりと背が長く、とても痩せていた。俳優にいたら普通だけど、お笑い芸人にいたらかっこいい。そんな顔立ちだった。
 しかし俳優のような演技力も、芸人のようなユーモアもなかったので、笑顔での接客が苦手だったし、他のバイトや社員たちとのコミュニケーションも積極的ではなかった。

 黒縁眼鏡に少し長めの前髪が、本屋の店員らしくサブカル好きの印象を与えたが、上垣さんの趣味は小説でもアニメでも漫画でも音楽でもでもなく、バードウォッチングだった。

 そこそこにイケメンでクールだったので、「ミステリアスで素敵」と、彼を狙う女子アルバイトも何人かいた。しかし、みんなすぐに幻滅して離れていった。
 彼は本当に話し下手で、言われたことにしか返事しないような人で、しまいには休みの日には野鳥観察をしているなんて言うものだから、女の子たちにとってはつまらなくて当然だっただろう。

 そんな上垣さんが、どうして新人のポンコツバイトの私にだけ優しい声をかけてくれたのか。
 一度、休憩室で二人きりになった時に聞いたことがある。
 「昔の俺も、よく店長に怒られたから」
 いつものように小さくそう言うと、上垣さんは近所のコンビニに弁当を買いに出て行った。
 すぐに戻ってきたかと思うと、弁当をガツガツと食べ始めた。私も家から持ってきたおにぎりを齧りながら、無言でスマホを眺めていた。
 二人の間に会話はなかったが、あの時の上垣さんは私を明らかに意識していたと、今でも思う。
 でもあの頃の私は、大学の同じ学部の水田くんに夢中で、上垣さんにはちっとも興味がなかった。

 それから月日は流れ、私は水田くんとも、当然上垣さんとも何もないまま大学を卒業し、隣の県の文具メーカーに就職した。

 初めは仕事に打ち込んでいたが、気が付けば周りはどんどん結婚していき、少しずつ焦るようになった。マッチングアプリを始め、何人かの男性と交際もしたけど、誰とも結婚までは至らなかった。

 収入や容姿に高望みはしていないつもりだったが、いつも向こうから振られてしまうのだった。
 私は趣味がなく、休みの日には仕事に関係する本を買って家で読むか、学生時代の友人や会社の同僚と食事に行くくらいしかすることがなかった。
 付き合った男性たちは、そんな私といても話が弾まず、つまらないらしかった。
 趣味のない女が好きな男は多いと思っていたけど、そんなこともないようだと知った。
 かといって、無理に趣味を作る気にもならなかった。


 就職して5年目の春に、大学時代を過ごした街に異動になった。
 ある春の日、駅前の本屋に寄ってみた。アルバイトをしていたあの本屋だ。
 適当に文庫本コーナーをぶらぶらしている時に、上垣さんが声をかけてきた。
 「あれっ、伊東さん?」
 その明るい声が、私は一瞬誰だかわからなかった。
 彼は長めだった髪を短くしていて、黒縁だった眼鏡を縁なしの大きな丸眼鏡に変えていた。痩せていた身体も、少し丸みを帯びていた。

 私は上垣さんだとわかった瞬間に、どういうわけか、この人が好きだと思った。かっこいいと思ったし、素敵だと思った。本当にどういうわけだったのか。それは今でもわからない。

 私たちは再会の挨拶を済ますと、その場で軽くお互いの近況を話した。
 ハゲ店長が2年前に退職し、上垣さんは店長に昇進していた。あの頃の暗かった印象がすっかり消え、明るい笑顔のイケオジになっていた。

 ここで立ち話もなんだから、とお互いの連絡先を交換し、次の土曜日に食事に行くことになった。
 ごく自然な流れで約束が取り決められ、私は驚いた。こんなにスムーズにコミュニケーションを取るなんて、私の知ってる上垣さんじゃない。
 だけど、その声や仕草は、私にこっそりフォローの声をかけてくれた、あの優しい上垣さんのままだった。

 土曜日に、北欧家具をあつらえたお洒落なカフェでお茶をした。上垣さんは相変わらずバードウォッチングが好きで、いまだに休みの日には野山に行き、野鳥を眺めていると話した。
 その他にも趣味が増え、映画を観に行ったり、カフェ巡りをすることもある、と楽しげに教えてくれた。

 誰かと行くの、と聞かなかったのはわざとだった。付き合ってる人はいるの。結婚はしてるの。
 それも、私は聞かなかった。

 三度目の土曜日のデートの夜に、これまたごく自然な流れで身体を重ねた。彼はとても優しかった。
 まるでいつも誰かにしてるみたいに、自然な動きだった。あの頃と同じ優しい声で、私の名前を呼んだ。

 以来、私たちは土曜日に会うのが恒例となった。
 土曜日が店長の彼の唯一の休みだったからだ。

 土曜日しか会えない恋人。
 そんなのちょっと変だよ、と友人に言われたけど、私はとっくにそんなことわかっていた。

 会える日はまずお昼にご飯を食べ、その後に映画を観たり買い物をしたり美術館に行ったりした。それから私の部屋に来て、夕暮れの差し込む部屋でセックスをして、夜に一緒にテレビを見たり、お酒を飲んだりしてから、それぞれのタイミングで寝た。

 日曜日は午後出勤だから、家で準備をしなければいけないと、上垣さんは朝早くに帰ってしまう。だから私は彼より先に起きて、コーヒーを立てておく。
 お揃いのマグカップで熱いコーヒーを飲み、軽くキスをしたら、上垣さんはさっと帰っていく。
 寒い季節になると、去り際にコートをばさっと羽織った。鳥が羽ばたいていく時のようだった。

 彼が帰ると、私は部屋を必死で掃除した。私の日曜日は、すべて次の土曜日のためだけに費やされた。上垣さんが、綺麗な部屋が好きだと言ったからだ。

 掃除が終わる頃にはだいたい夕方で、私は綺麗になった部屋の西向きの窓から、夕日を眺めてうっとりするのだった。
 この美しい陽に祝福されるように身体を重ねた昨夕のこと、そして次の土曜日のことを考えた。


 「私のこと、好きだった? あの頃」
 一度聞いてみたことがあった。野鳥を見にハイキングに行った日の帰りの車の中だった。
 上垣さんは当たり前のように「うん」と言った。
 「どうして? 他にあなたを狙ってる女の子はいっぱいいたじゃない」
 「なんか、夏希は趣味がなさそうだったから。それがよかったんだよね」
 「へんなの」

 私が笑うと、上垣さんはカーラジオから流れるテイラースウィフトの曲に合わせて口笛を吹いた。
 最近これが好きなんだ、と上垣さんが前に言っていた曲だった。上垣さんはあの頃と比べてずいぶんと趣味が増えていた。
 私は彼から教えられる音楽やドラマを一生懸命追って話を合わせていたが、本当はどれもピンと来ていなかった。
 それでもよかった。彼のために、彼の趣味に染まっていく自分が好きだった。

 夕暮れ色の空を、鳥の群れが飛んでいくのが見えた。あれはなんていうの、と聞くと、上垣さんはすぐに答えてくれたが、私にはもう聞こえていなかった。
 私は、上垣さんの横顔をじっと見つめていた。この人を心から愛したいと思った。できれば結婚したいと思った。


 2年間続いたそんな日々が終わったのは、つい先月の土曜日だった。

 上垣さんに、結婚したい、と私から言った。夕暮れの後だった。
 彼は無言で服を着ると、部屋の真ん中のテーブルを挟んで、私と向かい合って座った。

 「ごめん」
 「何が?」
 「俺、結婚してるんだよね」
 「うん、知ってた」
 厳密に言えば、そんな気がしてただけで、決定的ではなかった。でも、そうなのだろう、と思っていた。

 上垣さんと再会したあの日、垢抜けた表情や雰囲気を見て、きっと誰か愛する人がいるのだと、私は思った。
 趣味が増えたのも、きっとその人のおかげだし、土曜日しか会えなかったのはきっと奥さんにバレない都合のいい曜日だったからなのだろう。
 私の一連の予想は、どれも間違いではなかった。
 だからショックはなかったが、でも寂しさが恐ろしいスピードで胸に広がってきた。これで終わってしまうのか、と。

 「……知ってた?」
 上垣さんの眉間がぴくりと動いた。
 「知ってたというか、そんな気がしてたよ」
 私がそう言うと、上垣さんが大袈裟な溜め息をついて、私の目を見て、そして逸らした。
 「なんだよそれ」
 上垣さんは低い声で呟いた。私は黙っていた。
 「……言わなかったのは、悪いと思ってる。でも、俺は夏希のことをちゃんと愛してるよ」
 「ちゃんと、って?」
 「……妻と別れて、ゆくゆくは君と一緒になりたいと思っていた。それぐらい、ちゃんと」
 その言葉に、私は嬉しさのあまり飛び跳ねたい気持ちになった。上垣さんが私のために奥さんと別れてくれるなんて。
 それでも寂しさはまだ消え去っていなかった。

 「でも、まだ、時期が。時期が来たら言うつもりだったんだ。本当だ。だけど、その前に君が突然結婚したいだなんて言うから、ちょっと動揺しちゃってるんだ、今」
 嘘だと思った。
 それが嘘でも、私はいい気がした。
 きっと嘘だ。嘘の方がいい、と思った。
 私は彼を愛していたかったけど、一緒になりたかったけど、きっと彼とは幸福になれないと思った。
 奥さんと別れようが、このまま不倫関係を続けていようが、どんな形でも私たちは幸福にはなれないのだ。
 そんな思いが込み上げて、泣きたくなった。
 私はそんなことしたってどうにもならないとわかっているのに、上垣さんに詰め寄った。

 「時期ってなあに? 今すぐじゃだめなの? ねえ、どうしてよ」
 「いろいろあるんだよ」
 「いろいろってなあに?」
 「もういいだろう。またちゃんと話すから」
 「いや。今ちゃんと話して。じゃないと別れる」

 上垣さんの目に、一瞬安堵の色が光ったのを、私は見逃さなかった。これで終わりだと確信した。

 「ごめん、また、本当にちゃんと話すから。今はタイミングが急すぎて……だから、別れるなんて言うなよ」
 焦る口調と相反する色を宿した上垣さんの瞳を、私は見つめた。
 私は泣いた。声を上げて泣いた。
 しばらく、何十分も泣いていた。上垣さんは下を向いてずっと黙っていたが、
 「別れたくない、って俺は言ってるんだよ」
 と、あの頃のような低く小さな声で言った。
 「ううん。これで終わりにしよう」
 私は嗚咽しながら、小さく笑って言った。
 「奥さんのところに戻って、幸せになってね」
 橙色の鋭い日差しが部屋を半分に切っていて、彼は明るい方、私は暗い方にいた。

 わかった。ごめん、本当にごめん。
 そう言って、上垣さんは立ち上がって背を向けた。私は暗いところから手を伸ばしてみたが、届かなかった。彼は光のある方へ行ってしまった。

 それじゃあ、と言って薄手のコートを羽織って去っていく彼の後ろ姿は、いつか彼が教えてくれたシジュウカラによく似ていた。


 「では、ラジオネーム『チョコバニラ』さんからのリクエスト曲です」

 DJの声ではっと我に返る。部屋はすでに真っ暗で、私が祈るように待った瞬間はとうに過ぎていた。

 「プロポーズしてくれた彼氏が好きな曲で、私にとっても思い出の曲になりました、とのことです。いやぁ素敵。いいなぁ。それではどうぞ、浜田省吾で『もうひとつの土曜日』。」

 部屋に電気をつけながら、思わず「うげぇ」と声が漏れる。なんだか独り言が増えたようだ。

 土曜日にプロポーズされたから、ハマショーって。
 あまりにベタなリクエストに、私は鼻を鳴らして笑う。このメールの人、本当に今は頭の中がお花畑で、幸せなんだな。

 渋い歌声を聴きながら、私は冷蔵庫からビールを出して飲み始めた。酒のアテにしては、最低の気分だ。
 私にとって、土曜日はとても辛い日だ。結婚を迫り、そして別れた。この曲とまったく逆だ。嫌いだと思った。
 でも、なんだか笑えてくる。私はビールをぐいぐい呷った。
 そういえば、ハマショーといえば……。

 私はスマホを取り、Facebookを開いた。
 友人リストから水田くんを探し出すと、DMを打ち込んで送った。

 「久しぶり。伊東です。今ラジオでハマショー流れてて、水田くんのこと思い出しちゃった。確か好きだったよね?」

 水田くんと最後に会ったのは大学の卒業式だから、もう7、8年は経つ。突然こんな訳のわからないメッセージが来ても困惑するだろうな。
 そんなことをした自分がなんだか馬鹿馬鹿しくなって、私はradikoを切り、風呂を沸かした。

 風呂から上がってスマホを見ると、Facebookから通知が来ていた。水田くんだった。

 「夏希! 久しぶりすぎてびっくりした! しかも俺もそのラジオ聞いてたからもっとびっくりした!」

 へえ、そんなこともあるのか、と私も驚きながら、続きを読む。

 「でもごめん、たぶん勘違いだと思う! 俺が好きだったのはハマショーじゃなくて、長渕剛だよ!!」

 声を出して笑ってしまった。
 勘違いしていたこと、そして水田くんの文章の打ち方が昔とまったく変わっていなかったことがおかしくてたまらなかった。

 「ごめん、間違えた(笑)」と打ち込んで返すと、すぐに返事が返ってきた。

 「最近どう? 仕事頑張ってる? ちなみに俺はラジオの人みたいな幸せなエピソードは何一つないや(笑)  仕事も結構忙しくて大変だけど、毎日頑張ってる!!」

 私はしばらくそのメッセージを見つめていた。気がつくと、目から涙が溢れていた。
 自分がいま、どういう感情なのかわからなかった。

 ゆっくりとフリック入力をして、返事を打った。

 「私も仕事頑張ってる。いい恋の話もないよ。私、ついこないだ振られちゃった。その人、結婚してたんだ。結婚してたのに私と付き合ってたの。私は趣味のないつまらない女だけど、そんなところがよかったんだって。その人はテイラースウィフトをよく聞いていて、私は正直よくわからなかったけど、一緒に聞いたりしてた。それから彼は野鳥が好きで、去り際も鳥みたいだった。あと、私は学生の頃、水田くんが好きでした」

 送信ボタンを押した瞬間に、私は風呂上がりの上気した頬がさらに熱くなるのを感じた。
 何を送っているんだか。こんなこと急に言われても、きっとどうしていいかわからないに決まってる。
 いつの間にか涙は止まっていて、私はスマホを置いた。返信が来るのが怖かった。どんな言葉が書かれいても、恥ずかしすぎて見ることができないと思った。

 私はコートを羽織り、スマホを持たずに外へ出て、近くのファミレスに晩御飯を食べに行った。
 帰ってからも一度もスマホを見ることなく、テレビを見たりして過ごし、そのまま寝ることにした。
 眠りにつく直前に一度だけスマホの画面を付けると、Facebookの通知が一件来ていたが、無視してそのまま目を閉じた。


 翌日、昼過ぎに目が覚めた。日曜日にこんなに寝たのは久しぶりだった。
 これまでは上垣さんのために早起きし、別れてからも習慣のせいで早くに目が覚めてしまっていた。

 恐る恐るFacebookを開く。水田くんからの返信は、たった一言、
 「飲みに行くかぁ!」
 とだけ書かれていた。
 私は救われたような気がして、また泣いていた。

 それからメッセージをやり取りして、私たちは次の土曜日に会うことになった。水田くんも同じ街のどこかに住みながら働いているとのことで、すぐに会える距離にいた。

 そういえば水田くんと二人きりで会うことなんて、学生時代には一度もなかった。
 私は彼となんとなく仲良くなり、なんとなく好きになり、そして他の女の子が狙っているという噂に燃えて彼を追いかけ始めたけれど、結局なんの進展もないまま、なんとなく恋のようなものが終わった。それだけだった。
 彼との思い出らしいものはひとつもないのだ。
 そんな彼と、今会って何を話すのだろうか。

 私は水田くんとの約束を楽しみに、1週間の仕事に励んだ。そんなふうに過ごす日々は久しぶりだった。

 土曜日の朝、水田くんからメッセージが来た。
 夜に居酒屋で会う約束だったのだが、急な仕事が入ってどうしても遅くまでかかってしまいそう、ということだった。
 私は残念に思いながらも、仕方ない仕方ない、と胸のうちで自分に言い聞かせるように呟く。

 じゃあ次の土曜日かな、と送ると、
 「今日、夕方にちょっとだけ抜けられそうなんだ! そのタイミングで会える?」
 と返事がきた。
 仕事の合間に会うくらいなら、別日に変更した方がいいのでは。そう思ったが、私は「OK」と返事を送り、久しぶりに会うことになった。

 夕方になって、指定の店の前まで行くと、水田くんは先に来ていた。すぐにわかった。
 黒のダウンコートの両ポケットに手を突っ込み、あの頃と全然変わらない姿で、彼は古い喫茶店の前に佇んでいた。
 水田くんは私に気がつくと、一瞬面食らったような顔をしてから、片手を上げて挨拶をした。

 「久しぶり! ごめんな。こんな変な形になっちゃって」
 「久しぶりだね。ううん、いいの。と言いたいところだけど、確かに変だわ。別日でもよかったのに」
 私が笑って言うと、水田くんは後頭部をぽりぽりと掻きながら真顔で言った。
 「夏希がさ、たぶん、大変なんだろうなと思って。できるだけ早く会えたらと思ったんだ」
 水田くんは理知的な目をじっとこちらに向けた。
 「ありがとう。やさしいね」
 私は頭を下げて、お礼を言った。

 お互いの近況を少しだけ話すと、私は店を指して入るよう促した。しかし水田くんは「あー」と気まずそうに声を出すと、
 「実はさ、本当にちょっとしか時間ないんだ。だからごめん、立ち話でもいい?」
 「え、なにそれ!」
 思わず大きな声が出てしまう。

 水田くんにしてみれば、私は「不倫されていた男と別れたあとに、学生時代に好きだったと突然言ってきた女」だ。そんな私に対してすかさず飲みに行こうと誘った彼は、下心があるのではないかと密かに思っていた。私も少しだけ、期待した。
 しかし、彼は本当に私を心配して、会いに来てくれただけだったのだ。彼に申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちが心から湧いてくる。
 「いいよ、立ち話でも」
 水田くんは、わりぃ、と本当に申し訳なさそうに笑った。

 「いろいろあったんだね」
 突然水田くんが言う。私が何も言えずにいると、彼は続けて話した。
 「その男はさ、結構いいやつだったんだと思うけど、やっぱり不倫はよくないよな。別れて正解だと思う」
 「……うん。いいやつだったけど、悪いやつだった」
 「だろ? あと、俺は趣味がない人のことをつまんないやつとは思わないけど、趣味は一つくらいあってもいいかもね」
 私は水田くんの顔を見上げた。彼はニヤッと笑い、
 「長渕はいいぞ。夏希も聞いてみたら」
 と言った。

 「私、長渕はちょっと苦手かな。ハマショーも微妙。あとテイラースウィフトも全然ハマんなかったな」
 私の言葉に水田くんはガハハと大きな声で笑った。
 「こりゃ失敬」
 私も悪戯っぽく笑い、ごめんねと伝える。
 「まあ長渕は冗談として、とにかく、趣味に没頭できると案外忘れたりできるしさ、嫌なことも。俺は仕事で嫌なことがあるとジムに行って汗を流すんだ。結構いいよ」
 水田くんは明るくそう話した。そして腕時計を見ると、やべ、と小さく呟き私を見た。もうタイムリミットのようだ。

 「ありがとう、忙しいのに。とにかく趣味を持てってことね」
 「いや、まあそれもそうなんだけど、なんていうか」
 「うそうそ、ごめん、わかってる。そういうことじゃなくて、私を心配してくれたんだよね」
 水田くんは照れたように微笑むと、
 「ま、そういうこと」
 と言って、ポケットから右手を出して親指を立てた。私もそれに倣って親指を立て返す。
 それじゃあ、ありがとう、と立ち去ろうとすると、水田くんは私を呼び止めた。

 「夏希、綺麗になっててびっくりした。よかったらまた、飲みに行こう。ほら、俺も彼女いないし、それに昔俺のこと好きだったんでしょ?」
 私は思わず吹き出して、水田くんのダウンコートをぺしりと叩いた。
 「やーっぱ下心あるんじゃん」
 「え、え、何、やっぱりって?」
 「そう、やっぱり」
 「やっぱり、かぁ。でも否定はできないなぁ」
 冷えた風が流れる首元をすくめ、水田くんは私に軽くウインクをした。
 「なんかちゃらいなぁ。でもすごく正直。いいよ、ご飯行こうね」
 よっしゃ、とガッツポーズをする彼がおかしくて笑い、そして私たちは別れた。

 私は去っていく水田くんの背を見送った。通りには夕陽が差し込んでいて、彼は黒いシルエットとして都市の中へ溶け込んでゆく。
 その姿は美しい希望のように見え、寂しい孤独のように見え、それは私の胸中の反映なのだと気がついた。

 突然訳の分からないメッセージを送ってきた私に、なんとか時間を作って会ってくれた水田くん。
 詳しいことは何も聞かず、あっけらかんとしていて、前向きな言葉をかけてくれた。そしてとても正直だった。

 上垣さんはいつも土曜日にしか会えなくて、結婚してるのに隠してて、出来もしないくせに奥さんと別れるだなんて嘘をついた。

 どちらも私にとって間違いなく希望だった。そして希望が去る時は、いつだって寂しい。
 これから私は、土曜日の夕陽をこうして外に出て見つめていこう、と思った。綺麗で寂しい部屋の中の暗いところからではなく、雑踏の中に佇んで、明るい場所からその光を見ようと思った。

 やっぱりまだあなたが好きです、と小さく言い、それが晩秋の風に乗って上垣さんのところへ届けばいいなと考えて、そして私は少し泣いた。

 帰り道に、スマホの音楽アプリで長渕剛を聞いてみた。やっぱり私には合わないようで、合わなかったということを、今度水田くんに話そうと思った。私はなんだかそれが嬉しかった。


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