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【短編小説】都市の断片:夜明けの小惑星


 朝まだきの空に星がひとつ見え、私は少し浮き足立ちながら、薄青に染まる街を歩く。
 大通りから一本入った路地をゆき、立ち並ぶ民家を過ぎると、私は「青猫珈琲」の扉をゆっくり押した。
 少し乾いたベルの音とともに店内へ入る。店の奥から、マスターの「いらっしゃいませ」という低く優しい声が聞こえる。
 私はカウンターの中に立っているマスターに軽く会釈をすると、店の一番の奥の席に向かった。
 手に持っていた日傘を床に置き、椅子に腰を掛ける。
 メニューを開き、コーヒーを選んでいるところへ、マスターがお冷とを持ってきてくれた。
 「コスタリカを」
 私はメニューを指差して、コーヒーを注文する。マスターは「コスタリカをひとつ」と繰り返すと、踵を返してカウンターへ戻っていった。しかし、すぐにまた私の席にやってきて、灰皿をテーブルの上に置いた。
 この喫茶店は喫煙可能だが、私の座っている席には灰皿が置かれておらず、それに気が付いたマスターが持ってきてくれたのだ。
 しかし私は、そのご厚意を丁重にお断りする。マスターは意外そうな顔をしたが、微笑みながら頷いて、またカウンターへと戻っていった。
 私は鞄から便箋と封筒とボールペンを取り出し、便箋の一行目に新郎の名前を書いた。少し照れ臭いが、式の前に彼に手紙を書きたくなったのだ。
 しかし、早速書き出しの言葉に困って、私は腕を組んでふーむと唸る。こんなことをしている自分がなんとなく恥ずかしくて、身体が少し火照ってきたので、ハンカチを取り出して額を少し拭く。くすんだピンク地に、クレマチスの花の刺繍が施された、お気に入りのハンカチだ。
 マスターがコーヒーを運んできたので、私はひとまずペンを置いて、カップを持つ。コスタリカのコーヒーのフルーティな甘さと香りが、飲んだ瞬間に口いっぱいに広がる。
 コーヒーを二口飲んで息をつく。再びペンを持ちかけたところで、ふと思い出して、鞄の中を漁る。
 私が取り出したのは、アクリルスタンド。最近では“アクスタ”と略されて、好きなアニメキャラやアイドル、俳優などのイラストや写真を入れて、持ち運ぶ若い人も多いのだとか。
 カフェなどに“アクスタ”を持ってきて、テーブルの上に置き、“推し”と一緒に食事する気分を味わう人もいるらしい。私はそういうことに疎いので詳しくはないが、いわゆる「推し活」というやつだ。
 それに倣って、私もとびきり大好きな“推し”の写真を“アクスタ”に入れ、持ち運ぶことにしてみた。
 といっても、流行りのように“推し”のシルエット の形に切り抜いたものではなく、四角いアクリルのフォトフレームに、プリントアウトした写真を入れただけなのだけど。
 私はアクリルスタンドをテーブルの上に置き、写真をしばらく眺めていた。
 “推し”に見守ってもらえたら、きっと何かいい言葉が浮かんできそうな気がする。私は再びペンを握り、手紙を書いてみることにした。

 「青猫珈琲」は、夜の23時から朝の8時まで営業している、一風変わった喫茶店だ。私は夜中、寝付けない時などには家を抜け出してよくここへやって来る。
 深夜帯にも関わらず、いつも店に入ると必ず一人二人、先客がいる。真夜中に居場所を求める人が、一定数いるということだ。
 今日は髪を赤色に染め、耳にはピアスを光らせた若い男性がすでに店におり、身体をソファにどっぷり沈め、煙草を吸いながら天井を見つめていた。
 店内は広めだが5席しかなく、それぞれに深緑色の一人掛けのソファが一脚だけ備え付けられている。複数人で来店した場合には困ってしまうだろうが、私の知る限り、ここにやって来る客は必ず一人だった。
 各席の感覚は不均衡で、向きもバラバラに置かれている。客同士の目が合わないようにするための配慮だと私は踏んでいる。
 それぞれのテーブルの上にひとつずつ照明が吊り下がっていて、暖色系の小さな灯りを灯している。店全体を照らす照明がないので、店内は常に仄暗く、まるで映画館や劇場のような雰囲気を醸している。
 そこに静かに流れるビル・エヴァンスやソニー・ロリンズなどのモダンジャズ。顎髭を蓄えたマスターが淹れるコーヒーの香り。窓の外から見える闇夜。
 すべてが心地よい空間に、来店客はみな疲れた顔をしながらも、心を落ち着けて、思い思いの時間を過ごしている。相変わらず天井を見つめながらぼんやりしている赤髪の彼も、自分だけの世界に浸っているように見える。
 彼は時々この店で見かける人で、何者かはわからないが、私は同じこの店を愛する者として、密かに彼を同志のように思っている。
 一見するとやんちゃそうな風貌の彼を、世間一般の人はどう見るかはわからない。女好きのする顔立ちで、夜の遊びも多そうな雰囲気は否めない。
 しかし、私にはそんなことはどうでもいいことだった。この店に来る人は皆、無関係の客にすぎず、そして真夜中に同じ時間と空間を共有する、友人のようでもあった。

 私は赤髪の彼がおもむろに一冊の本を取り出したのを尻目に、店内をゆっくり見渡した。
 カウンターの中でマスターが髭を撫でながら、帳簿らしきものを付けている。彼も謎に包まれた男だが、年齢はおそらく50代頃ではないだろうか。
 穏やかで、かつ繊細そうな雰囲気を纏っているが、何か只者ではないオーラも感じる。
 きっと、銀行か大企業なんかで仕事一筋に邁進し、数々の修羅場を潜り抜けながらも、堅実に歩んできた人生だったのではないだろうか。
 そして少し早めに仕事を退職し、たんまり貰った退職金で念願だった喫茶店を開いた。客だけではなく自身も穏やかに過ごせる場所として、深夜営業の店で静かにコーヒーを淹れている。そんなところか。
 これはただの推察なので、きっと様々な背景を抱えているとは思うが、それは私の知るところではない。ともかく、マスターの淹れるコーヒーは格別で、彼の醸し出す空気はどこまでも静謐で、私はそれが好きだ。それだけでいい。
 仕事があるので、深夜営業のこの店に頻繁に訪れるのは難しいが、できることなら毎晩でも来たいくらいだ。そのくらいここを気に入っている。
 仕事に追われ、家に帰れば家族のこと。その間にもお金に関する問題や、身体のこと。生きていれば、色々とある。そんな色々から逃げるのではなく、じっくり向き合うために、このカフェはあるような気がしている。
 私は、結婚というひとつの人生の節目について、このカフェにやってきてはじっくり思いを巡らし、向き合ってきた。そして今夜、向き合い続けた結果として、新郎へ向けて手紙をしたためることにしたのだ。
 感謝と不安、そして希望を伝えるために。

 午前4時55分。ジャズピアノの静かな音色に眠気を感じながら、コーヒーを啜り、瞬きを繰り返す。
 それにしても一向に言葉が出てこない。ようやく初めの挨拶とそれに続く文言は数行書けたが、そこでペンが止まってしまった。普段、営業の仕事をしている時には次から次へと言葉が出てくるというのに、困ったものだ。
 私はテーブル上に置いた“推し”の写真を見て、「力をくれ」と祈った。“推し”は何も言わずにただ微笑んで、私を見つめ返すだけだった。
 私はふっと笑って便箋に目を落とした。その時、不意に“推し”の声が聞こえてきた。

 きっと、相手に届く素敵な言葉を書ける。あなたなら大丈夫。

 私は、はっと顔を上げてアクスタを見つめた。が、当然“推し”は何も言わない。先程聞こえたのは、ただの私の妄想だったようだ。まあ、そうだよな、と自虐的に笑う。
 しかし、私は“推し”に小さくありがとうと言い、一旦ペンを置いた。少し休んでから、もう一度書いてみよう。そうしたらきっと、君の言うように素敵な言葉を書けるだろう。

 しばらく目を閉じていると、次第に眠りに落ちていく感覚に襲われる。あと数分で完全に寝るという時、店のドアが開いた。ガラガラとベルの音が鳴り、私は少しびっくりして目を開けた。
 見やると、年配の女性が店内に入ってきて、私の斜め前の席に腰を下ろした。女性はふうと息をつくと、水を運んできたマスターに丁寧に頭を下げてから、マンデリンを注文した。ここからは顔はしっかり見えなかったが、とても上品な佇まいで、柔和な雰囲気を纏っていることがわかった。
 こんな人でも、この真夜中の喫茶店にやって来ることがあるんだな。少し珍しく思い、私は彼女の綺麗な白髪と微かに見える横顔をしばらく見ていた。
 女性はマンデリンが運ばれて来ると、両手でカップを持って一口飲んだ。そして膝の上に置いた小さなバッグから何かを取り出すと、耳を少しさわってから、俯きがちにそれをじっと見つめていた。
 小説でも読んでいるのだろうか。ともかく、ここに来たからには心ゆくまでゆっくり過ごしてほしいものだ。私はまた勝手に、彼女に同志のような気持ちを抱くのであった。

 赤髪の彼と、年配の女性と、マスターと、私。
 まるでちがう人たちが、この店で同じ時間と空間を共有し、そして心穏やかに過ごしている。なんだかそれは奇跡のようでもあり、私はその奇跡に希望のようなものを感じた。
 何がどうというわけでない。ただ、希望だと感じたのだ。
 私はいよいよ手紙を書き切ろうと、ソファに座り直し、ピンクのハンカチで手汗を拭うと、「よしっ」と小さく気合いを入れた。
 さあ、いざ。
 と、その前に。私はマスターを呼んだ。
 少し腹が減ったので、この店の名物のパフェを注文することにした。アクリルの中の“推し”が、「ほどほどにしなさいよ」と呆れ笑いをしたような気がした。年甲斐もなく、私は甘いものに目がないのだ。




 本日最初の来店客は、ニシカワくん。彼はいつも、赤髪にピアスという出立ちで、眠そうな目をしながらやってくる。
 店の真ん中あたりの席に座り、煙草を咥える。私が水を運んで行くと、小さく頭を下げてから、「グアテマラを」と言う。私は頷き、カウンターへ戻る。
 グアテマラのラベルを貼った瓶からメジャースプーンで豆を掬い、電動ミルにかける。
 粉になった豆をドリッパーにセットし、沸かした湯で静かに抽出する。香りが立ち込める。
 ニシカワくんの元へコーヒーを運ぶと、彼はまた礼儀正しく頭を下げる。
 他にお客さんもいないし、することもないので、カウンターの中から彼の様子を眺めてみる。彼は音を立ててコーヒーを一口啜ってから、鞄から「保育内容論」というタイトルの本を取り出した。
 彼はそのテキストを開くと、眠たそうな、しかし意思の宿った眼差しで読み始めた。
 今日も、本当によく頑張っているな。

 「青猫珈琲」を始めてから、4年が経った。ここには、様々な客がやって来る。
 都市の片隅で、深夜のみという特殊な営業時間にも関わらず、細々とではあるが4年も店を続けてこられたのは、夜遅くに一人になれる場所を求める人間が都会にはたくさんいるという証拠なのかもしれない。
 ニシカワくんも、例外ではない。
 彼は5ヶ月程前からこの店に通うようになった常連客だ。
 平日の25時過ぎ、開店から2時間経った頃、ニシカワくんは来店する。すでに他のお客さんがいれば別だが、空いている時は必ず同じ席に座る。煙草を吸いながらぼうっと過ごしながら、時々持参したテキストをめくっている。
 彼と初めて言葉を交わしたのは、先月のこと。その日は午前3時を回っても客はニシカワくんしかいなかった。
 彼が二杯目のコーヒーを注文した時、不意に向こうから「ここのコーヒー、美味しいです」と声を掛けてきたのだ。
 私は感謝を伝えて去ろうとしたのだが、他の客がいなかったためか、彼は私に向かって静かに語り始めた。

 ニシカワくんは短大に通う20歳の青年で、保育士を目指して勉強しているという。
 家が裕福ではないので、学費を自分で稼ぐ必要があり、学校の講義が終わった後に夕方から0時まで居酒屋でアルバイトをしているとのことだった。

 平日は昼は学校、夜はアルバイト。その後この店へやって来るというルーティン。
 初めは、学校の勉強の内容を復習する場所として来ていたつもりだったが、ここに来るといつの間にか深い思索に耽ってしまうことが多い。
 それならば、この店に来る時はコーヒーを飲みながら、自分を取り巻く色々なことにとことん向き合い、思いを巡らせることにしようと決めた。

 色々なこと。巡らせる思い。それは複雑なものがあった。
 ニシカワくんには社会人として働く交際相手の彼がいる。すでに社会に出ている年上の彼に見合う人間になるため、昔からの夢を必ず実現させるため、日々頑張っている。恋人も応援してくれているし、学校の勉強も特に困っていることはない。それでも、心の奥底ではいつも暗い感情が蠢いているのであった。
 学費を自分で稼いでいるが、学友はみな親に出してもらっている者がほとんど。自分だけが毎日のようにバイトを詰め込み、疲れた身体を背負って過ごしている。仕方ないこととはわかっていても、どうしても周囲へのやっかみの気持ちを拭い切れない。恋人が多少のお金の援助をしてくれているが、彼もまだ新卒2年目。給料の額もそんなに多くはないはずで、あまり負担をかけさせたくない。
 学校やバイト先の友人たちは皆いい人ではあるが、自分がゲイであることは言えないままだった。異性間の交際を前提する皆の話題や価値観に、時折疎外感や孤独を感じた。

 劣等感や嫉妬、申し訳なさ。孤独、疎外感、不安。
 様々な感情が入り乱れ、いつも心が重い。それでも、やるしかない。現実に押し潰されそうになりながら、進んでいかなければいけない。
 昨年、思い切って髪を赤く染めた時、恋人が「似合うよ」と言ってくれた。それだけで、すごく嬉しかったーーー。


 そんな話を、ニシカワくんは静かに語ってくれた。時折、虚空に遠い目を向けながら。
 なぜ突然私に話す気になったのかはわからないが、誰にも話せないという自身のセクシャリティについて打ち明けてくれたことは、真摯に受け止めたいと思う。
 誠実で、繊細で、思慮深く、優しい。見た目で誤解を受けることもあるかもしれないが、私はニシカワくんが素晴らしい青年であることを知っている。
 日々の生活の中で疲弊した心と身体を、この店で心ゆくまで癒してほしいと思っている。

 私は自分用のコーヒーを淹れ、カウンターの中に置いた丸椅子に腰掛けて、一口啜った。
 窓ガラスに、店内の小さな照明が反射している。その向こうの外の闇は、夏の夜だというのに冷たく感じられ、都会で生活する者の孤独を切り取っているかのようだった。
 「青猫珈琲」の開店は、母の念願だった。
 私は毎日、自身の人生と母のことを、このカウンターの中に座りながら思い返してしまうのだった。


 私はこの街で生まれ、育った。
 事業の失敗により、多額の借金を背負った父が、私が4歳の時に蒸発をした。母は借金取りに追われながらも、必死で私を育てた。
 仕事を掛け持ちし、朝から晩まで働いて心身ともに常に疲弊していた母は、よく私に「お父さんの借金を返したら、喫茶店でも開いてゆっくりしようね」と話した。私はただ頷くばかりだったが、母はいつか必ず喫茶店を開くだろうと何故か確信していた。 
 中学を卒業すると、私は高校に行かずに働いた。
 建設会社に就職し、稼いだ金はほとんどを母に渡し、借金の返済に充てた。
 18歳の時に、現場で右足を負傷した。治療費は会社が負担してくれたのでお金に困ることはなかったが、復帰は難しく、私はそれを機に退職をした。
 その頃には、必死で働いてきた甲斐もあって、借金はあと数年で完済というところだった。
 こうなったらもっと早く返済し、母を楽にしてやろう。そしてさらに金を稼いで、喫茶店を開こう。そう考えた私は、痛む右脚を抱えてこの町を離れ、東京へ向かった。
 東京には建設会社で働いていた頃の同僚がいた。彼は私より1年早く会社を退職し、今は池袋で中華屋を営んでいた。彼に頼れば、首都圏内のいい働き口を紹介してくれるかもしれない。
 そう考え、連絡をすると、彼はあっさりと快諾してくれた。
 今乗っている車があるのだが、それはとある独立系の中古車販売会社で買ったもので、購入のやり取りをしているうちにそこの社長と仲良くなった。その会社で働いているのは、社長を含めて2人しかいない。人手が欲しいが、信用できる筋がいいと話している。お前なら真面目だし、働き者だから、自信を持って紹介できる。
 そうして私は、上京後すぐに、その会社で働き始めることができた。

 初めは社長と一緒に中古車の査定を手伝っていたが、足が悪いためにどうしても車体の確認時に身体を屈ませたりするのがきつく、私は店内での営業を主に行うようになった。
 当時は1980年代。中古車販売業は景気が良く、給与は以前の会社にいた頃には信じられないような額が振り込まれた。おかげであと数年で完済という借金を、一年足らずで返すことができた。
 次は母の夢だった喫茶店を開く資金を貯めよう。私はますます仕事に打ち込み、お金を稼いだ。仕事を通じて出会った女性と交際も始まり、結婚の約束もし、ゆくゆくは母と三人で喫茶店をやろうと話した。あの頃、私の人生は希望に満ちていた。

 しかし、そんな日々はあっという間に終わる。
 私は基本的に事務所の中で仕事をしていたので、書類作成を行うことも多かった。
 そんな私にある頃から、不審な指示が社長から出るようになった。それは虚偽の書類作成で、実際の販売価格よりも多い金額を金融機関に提出し、ローン契約を結ぶというものだった。
 例えば、顧客が100万円の車をローンを組んで購入したものを、金融機関に対して150万円と記載した書類を提出すれば、50万円の差額が生まれる。それを会社の懐に入れるという仕組みだ。
 私は阿呆者だったので、社長の「ローンを通りやすくするための単なる調整で、後でこちらで正規の数字に変えておく」という言葉を信じ切り、虚偽の書類を作り続けた。
 詐欺だと疑わずに、実直に罪を犯し続けた私のおかげで、会社はどんどん利益を上げ、ボーナスはとんでもない金額が出るようになった。

 誰かがリークしたのか、真相はわからないが、ある日詐欺行為がバレた。
 不正に関わった当事者として、私は逮捕され、8年の懲役が決まった。詐欺だと知らなかったと訴えたが、聞き入れられることはなかった。
 迂闊だった。虚偽の書類に本当は絶えず違和感があったのだが、どんどん跳ね上がる給料に目が眩み、見て見ぬふりをしたのだ。
 喫茶店を開くにはもう十分な金額が貯まっていたはずだった。その時点でスパッと仕事を辞めて、地元に戻り開業に動くべきだったのだ。
 私は騙されて捕まったのではない。己の欲望に負けて捕まったのだ。
 私の巨額の貯金は、一部が没収されたが、大半は残された。面会にやってきた交際相手に、私はそのお金を母の口座に振り込むよう頼み、通帳の在処を伝えた。彼女はそれを持ったまま、姿を消した。それきり、彼女の行方は誰も知らない。

 刑期を終えて出所し、私は地元へ戻った。母は私のことで心労が祟ったのか、すっかりやつれてしまった。無一文の私は母と暮らしながら、この街で働き口を探した。しかし前科持ちの私を雇ってくれるところはなかなか見つからなかった。解体現場や倉庫などの肉体労働であれば比較的採用されやすかったが、足を悪くしているために長く続かなかった。
 何度も仕事を転々としながら、必死で働いた。給料は少なかったが、生活を切り詰め、死ぬ気で金を貯めた。気がつくと私は、40代半ばになっていた。母はもう70歳を過ぎ、家の中で何をするでもなく過ごしていた。借金を返すために必死で働いていたあの頃の方が、借金を完済し仕事もする必要がなくなった今よりも、生きる気力に満ちていたように思う。それは年のせいだけではないことは、明白だった。私は、いつになれば母のために喫茶店を開けるのだろうか。

 そして4年前。良い物件を見つけ、金も十分に貯まり、ついに私は喫茶店を開く夢を叶えた。店の名前は、服役中に読んだ萩原朔太郎の詩集「青猫」からとった。内容は難しく理解できなかったが、その詩集は何故か私の心を抉り、いつまでも覚えていたのだ。
 「青猫珈琲」の開店の前日、私は母の墓に手を合わせに行った。母はこの年の2年前に死んだ。とうとう喫茶店を一緒にやるという夢は叶えられなかった。
 私は、「青猫珈琲」を深夜帯のみの営業時間にすることにした。ニシカワくんのように、社会の中で疎外感を抱きながら生きている人たちの休息の場になればいいと思った。
 私は今日も窓の向こうの闇を見つめながら、己の人生と、母のことを思い、静かにコーヒーを淹れている。


 カラカラとベルが鳴り、客が一人入ってきた。傘を手に持った中年の男で、彼も常連だった。いつものように店の一番奥の席に座り、ふうと息を吐く。私がお冷を運ぶと、「コスタリカを」と注文する。私は「コスタリカをひとつ」と繰り返した後、テーブルの上に灰皿がないことに気が付き、カウンターからひとつ持ってきた。常連の彼は、この店でいつも煙草を吸う。
 しかし、今日の彼は、灰皿を丁重に断った。ほう、どうしたのだろうか。私は微笑んで頷き、灰皿を持ってカウンターへ戻った。

 男の名前は、確か高田といった。以前彼が来店した時、テーブルの上に名刺が置かれていたのが見え、名字を知ったのだ。
 高田さんはいつも金曜日の夜にやってくる。少し疲れた顔をしながら店に入り、必ず同じ席に座り、そして明け方までただひたすら何か物思いに耽りながら過ごしている。
 彼は雨でも晴れでも傘を持参している。常に雨に備えているのか、それとも日傘か。どちらだとしても、良いことだ。
 コスタリカのコーヒーを持って行くと、高田さんはテーブルに便箋を広げており、何か手紙を書いているらしかった。ピンクのハンカチで額の汗を拭き、うーんと唸っている。誰に向けての手紙かはわからないが、こんなにも言葉をじっくり選んでいるなんて、きっと大切な相手なのだろう。
 カウンターに戻り、何気なく高田さんの様子を見ていると、彼はおもむろに鞄から写真立てのようなものを取り出し、テーブルの上に置いた。アクリルでできた写真立てのようで、誰の写真かはここからは見えなかったが、高田さんはそれをじっと見つめていた。
 今日は煙草も吸わず、写真を置いて、手紙を書いている。いつもと違って不思議な様子だ。何か特別な出来事があるのかもしれない。
 私はお客さんの様子をじろじろ見るのをやめて、煙草に火をつけると帳簿を開いた。数字は苦手だが、過去の反省から計算は何度も行い、漏れのないように記録を付ける癖が身についた。

 しばらくした頃、店に老齢の女性が入ってきた。
 お冷を席に運ぶと、彼女はマンデリンを丁寧な口調で注文した。
 彼女は上品な佇まいのマダムで、ここに来るのは三度目だった。この年代の女性が来るのは珍しいことだが、この店を気に入ってくれたようで嬉しい。
 淹れたてのマンデリンを運ぶと、彼女は両手でカップを持って飲んでから、耳にワイヤレスイヤホンをはめて、スマホを取り出した。
 今日もおそらく、アニメを見ているのだろう。彼女は最新のイヤホンやスマホを駆使し、配信される最新のアニメを視聴している。以前来た時に、そう話してくれたのだ。
 こんなおばあちゃんがアニメ好きだなんてことが、一緒に暮らしてる娘にも孫にも恥ずかしいらしくてね。本当はおうちのテレビでゆっくり見たいのだけど、嫌がられるから。ここならWi-Fiも完備だし、人もあまり来ないし、何よりとっても落ち着けるのよね。
 彼女はそう言って、少し照れながら美少女が悪の組織と闘うアニメの画面をちらりと見せてくれた。
 趣味に年齢も性別も関係ないではないか。私は、彼女に朝が来るまで、何時間でもここでアニメを見るといいと伝えたものだった。

 高田さんが不意に私を呼んだ。向かうと、彼はパフェを注文した。コーヒー以外にも何か食べ物を出そうと研究の末に開発した、この店自慢のパフェだ。
 注文を承ってから、テーブルの上のアクリルスタンドをちらりと見た。そこには、美しい女性の写真が飾られ、こちらに向かって微笑んでいる。
 私の視線に気が付いた高田さんが、はにかみながら口を開いた。
 「これ、亡くなった妻の写真なんです……綺麗でしょ」
 「ええ、とても」
 「……本当は写真立てに入れて持ち歩きたいんだけど、ちょっと重くて。だからアクリルスタンドにしたら軽いかなと思いまして」
 「素敵ですね」
 私がそう返すと高田さんは、嬉しそうに礼を言い、そして手元の便箋に目を落とすと穏やかに語り始めた。
 「今、手紙を書いてるんです……娘の結婚相手に。娘は母親を早くに亡くしてからずっと私と二人暮らしでしたから、寂しい思いや苦労をたくさん掛けました。でも本当に優しい、いい子でね。このハンカチも、一昨年の誕生日に娘がくれたもので」
 テーブルの上に置かれたピンク色のハンカチを手に取って、高田さんは愛おしそうにそれを眺めた。名前はわからないが、可愛らしい花の刺繍が施されていた。
 「だから、結婚するって話を聞いた時はそりゃもう嬉しくて。よくドラマなんかである、『娘はやらん』みたいな、ああいうのは全くないんです。寂しい思いをさせた分、思いっきり幸せになってほしいと……まあ、少しは寂しいですけどね」
 高田さんはそこで言葉を区切ると、コーヒーを一口飲んだ。私はパフェの注文を受けたことも忘れて、高田さんの話に聞き入っていた。
 「その、父親としての思いっていうんですかね。向こうからしたら迷惑かもしれませんが、どうしてもお相手に伝えたくて手紙を書いているんです……でも思いの丈をぶつけようとするとこれがなかなか書けないもんで。それで、妻に見守っててくれと、こうしてね」
 そう言って高田さんは、テーブルの上のアクリルスタンドを手に取って、写真を優しく撫でた。
 「……月並みな言葉ですが、新郎さんはその思いをきっと大事に受け取ってくれると思いますよ。必ず、本当に」
 私は自分の言葉に少し熱がこもるのを感じながら、言った。
 「だといいんですけどね」
 高田さんは頭をぽりぽりと掻いて、私を見た。私は一旦パフェを作りにキッチンへ戻り、仕上げてから、高田さんの元へ運んでいった。
 「ありがとうございます。これ好きなんですよ」
 と、高田さんは嬉しそうに言い、早速スプーンでパフェを掬い、口に運んだ。
 「私はもう50になるんですけど、年甲斐もなく甘いものが好きでね。結婚した頃は毎日のようにお菓子を食べていたので、いつも妻に程々にしなさいよと呆れられてましてね……」
 ふふっと笑うと、高田さんは美味しそうにパフェを食べた。
 「ゆっくりしていってくださいね」
 私はそう告げ、カウンターの中へ戻った。

 ニシカワくんが去り、アニメ好きのマダムが去り、そして静かな店内にペンを走らせる音を響かせていた高田さんも、席を立ち上がった。
 窓から朝日が差し込んできていて、そろそろ閉店時間が迫っていた。
 伝票を持ってこちらにやって来た高田さんは、私と目が合うと嬉しそうに微笑んだ。
 「やっと、書けました」
 「よかったです。きっと、素敵な言葉が書けたことと思います」
 私の言葉に、高田さんはやや眠そうな目をさらに細くし、軽く頭を下げた。
 高田さんが出て行った後、テーブルの上を片付けに行くと、席の下に傘が一本置かれているのに気が付いた。高田さんがいつも持ち歩いているものだ。
 私はそれを掴むと急いで店を飛び出し、高田さんの後を追った。彼は朝の光を受けながら、信号を待っていた。声を掛け、傘を差し出すと、高田さんはぺこぺこと頭を下げて礼を言った。
 「娘が、『お父さんも日傘をさした方がいい。今の時代、男の人も普通だから』と言うので、いつも持ち歩いてるんです。でもこうしてよく忘れてしまうんですよね……私たちの年代にとっては日傘なんてのは女性のものだという刷り込みが、どうしてもありますからね」
 高田さんは額に滲んだ汗をピンクのハンカチで拭きながら、言った。私は「ええ、本当ですね」と返事をしながら、高田さんという人間の大きな魅力にふれたような気持ちを抱いた。
 「なんだか、マスターにはなんでも喋っちゃうな」
 信号が青になったが、高田さんは立ち止まったまま私に言った。
 「きっと、そういう人は多いんじゃないかな」
 私は、ニシカワくんやマダムの顔を思い浮かべた。何故、皆私に身の上を語るのだろうか。こんな不甲斐なく、無頼に生きてきた私が、誰かの思いを受け止める資格など……。
 「お店、続けてくださいね」
 高田さんはそう言って、去って行った。
 私はしばらくその背を見つめてから、小さく「必ず」と呟いた。

 店に戻る途中、夏の朝日が力強く街に降り注いでいるのが見えた。空は青く、その上に母がいて、私と私の店を見下ろしていると思った。それは虚しいことでしかなかったが、今日は何故か、希望のように思えた。
 真夜中でしか生きられない感情や思いがある。闇の底でしか馳せることのできないそれは、時に人を苦しめるが、きっと夜明けの光を見る時が来るだろう。
 私は歩きながらそんなことを思い、「青猫珈琲」のドアを押した。コーヒーの香りの中で、ここにやってきた人々が巡らせた思いがうねり合い、窓から差し込む朝日に照らされているのが見えたような気がした。



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