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【短編小説】「沙羅と夏」

 一/
「妹よ、やはりお前は疎ましい」

 妹宛の郵便物を覗き見た玄関先で、私は思わず呟いた。――お姉ちゃん、お姉ちゃんと、耳鳴りのような蝉の声までもが妹のもののように聴こえ、私は身震いをする。しんみりとした長い廊下が、ただ呆然と立ち尽くす私をじっと見つめていて、無情なまでに冷たく苦しい夏の気配が流れる汗となり、私の首筋を静かにたらりと垂れた。

 里美こと私の妹は、一ヶ月前にこの世を去った。自死であった。
 遺書などは探しても見付からず、何を考え、何を思い、その選択に至ったかは神のみぞ知る。もとより死の気配を背負いながら生きていたような妹はかつてこう言っていた。
 妹にとって姉という存在は神様のようなものだと。しかし、妹よ。それならどうして私に言わなかったのだ。執筆をしていることを、――何故この世を去ったのかを。私たち姉妹は昔から、目に見えぬなんらかの溝があった。妹が居なくなってしまった今なら分かる。
 きっとそれは、私が原因であろうから。

 二/
 いくら夏休み中といえど、働いている両親には頭が上がらない。最近は、一人で過ごす昼間に妹の幻影を見ることも多々ある。私は未だ妹に囚われているのかもしれない。廊下を歩く際、冷蔵庫を開ける際、日常の出来事に妹の声を聞く。
 
 私は二階の自室で、郵便物の書類を机に並べた。
 それは新人賞の記念品と、いくつかの手紙、また担当の方の名刺であった。いくら記念品といっても妹の遺影よりも小さな盾である。しかし私にはそれがどうしても大きなものに感じられたのだ。
 第三十二回つばめ小説新人賞
 大賞 「桜泣き」沙羅

 彼女の好きだった樹の名があり、これは妹だと改めて確信した。――と同時に、計り知れない感情が私を襲った。覗いてはならぬと思い、ベッドに横たわりながら妹がしばしば使っていたパソコンについては生前触れなかった。しかし、彼女は私に隠れながら執筆をしていたのだ。隠れながら、――本当にそうだろうか。それは私の思い違いかも知れない。彼女は謎な部分が多すぎたと言える。

 妹の里美はたいへん美人である。それに加え、小説の才能もあるとなると、自然と私の能力が卑下されているようでたまらない。姉の私は妹に良い部分を絞り取られた、――というより私が、母の子宮に才能諸々を忘れ、それを妹がかっさらっていったと言った方が正しいだろうか。
 責任感と優等生という特徴で武装した私は天然素材の彼女には到底及ばない。勝っているものと言えば、学力と身長だが、これは年の差ゆえに生まれたものなので誇ることは出来ない。甚だ無様なだけである。

 私は、沙羅妹が書いた小説を読みたいと思っていた。そして、散々貶めてやろうとまで思っていた。
 何故。
 私も小説を書いているから。

 三/
 私は一日足りとも勉強をしない日はなかった。努力で武装するしか私は部屋にいることが出来ないからである。少し先に生まれただけなのに、才能があり慕ってくれる妹に同情などされては困るから。私は彼女が思う姉像を演じ、彼女の少し先を歩かなければならない。それが姉、――先人として妹にしなければならない絶対的義務なのである。これは個人的見解だが、それをしないのならば、姉という権威は剥奪を余儀なくされるだろう。
 だから私は、目の前で妹がすやすやと吐息を立てている時でさえ、思考を止めなかった。
 しかしそんな私にも、趣味はある。またそれに割く時間もある。勉強の片手間に出来ること、――それこそが執筆だった。正直上手く書けているのかは分からない。しかしそれを中学の一年から始め、はや六年目。これだけ努力したのだから人並み以上は書けているだろう。中学の一時期、芥川龍之介や川端康成の文体をまね、己の文体確立に時間を割いていたこともあった。努力は裏切らない、それは変わらない絶対的事実である。が、天才的才能の前でこの法則は通用しない。その良い例が私と、里美である。しかし、私は彼女の小説を才能と言っているが、実際に彼女が陰で努力をしていたかは知らない。努力を才能という言葉で片付けてしまえば、妹にとっての冒涜、失礼千万、烏滸の沙汰である。されど執筆は、私が怠惰な生活に見出した一筋の光明だったことには変わりはない。私の、才能という花が咲く前、――まだ蕾なのにも関わらず、妹によって無惨に蹂躙されたのだ(彼女にとってそんなつもりはないだろうが。私が勝手に言っているだけである。)
 だとすれば、私が思うことはただ一つ、どうかこれが駄作であってくれと。世間が認めても、私だけは認めてくれるなと。

 ◇

 妹のパソコンを立ち上げ、四桁のパスワード画面で行き詰まった。一一二一、妹の誕生日ではなかった。ならばと、私の誕生日を入力してみると無情にも開いた。
 そうして私が執筆に使用している同じソフトを立ち上げると、そこには「桜泣き」という文書が保存してあった。
 私はそれを立ち上げる。
 そして初めて、――妹を知る。

 四/
 春を嘆く声がした。
 夢にも思えし我が声は、おまえのもとまで届かない。

 そんな言葉で始まる「桜泣き」、文字数は十万字超。登場人物は重い病に見舞われた「私」とその使用人の「おまえ」、「私」の一人称で語られる物語。共に山奥で暮らす二人は、桜が散っていく様子に時間の流れを感じながら最期の一時まで静かに暮らしていく。何の盛り上がりもない静かな物語。

 春は去り、百重乱れた桜舞う。
 散りて聴こえるその声をおまえは何と呼んだだろう。

 物語が終わった時、私は泣いていた。最後まで恐ろしく静かな物語であった。しかし名前も知らない二人がとても愛おしく思えたのは、彼女の心地よい文体であった。読めば情景が浮かび、口にすると風が立つような、――そんな沙羅だけの唯一無二の文体。死の匂いがする言葉選び、彼女は――この「桜泣き」はきっと、低迷した文学界にとって救いの物語であった。そう半なかば素人の私が思えるほどに素晴らしい作品であった。悔しくも妹は本物だった。私が口出しをする隙も与えない、彼女の傑作。

 ならば。
 私はどうする。

 五/
 その時、玄関のチャイムが鳴った。時刻は二時を回っていた。
 私は目を拭い、すぐに階段を駆け下りた。
「こちらは沙羅さんのお宅で間違いないでしょうか……」そこに立っていたのは、如何にも仕事が出来そうなスーツ姿の女性であった。背丈は私と変わらないが、きっちりとした雰囲気からそう感じさせた。どうやら新人賞の担当らしい。
「はい、沙羅の家で間違いないですね」
 苦笑。
「それじゃあ……あなたが沙羅さんですか!」女性は目を輝かせた。それは幼少期私がクリスマスプレゼントを目にした時と同じ表情であった。彼女もまた沙羅という才能に魅了されたのであろう。
「沙羅は私の妹です。そしてその妹は一ヶ月前に死にました。ここには居ません」
「え……、……」
 唖然とする女性。
「お茶くらいなら出せますよ、私以外誰も居ませんがそれで良ければ」
 私はその女性を居間に案内し、座らせた。女性の元へお茶を運んでいくと、女性は居間横にある妹の仏壇の前に座っていた。
「それが妹です。想像していたのと違いますか?」
 遺影という小さな檻の中、海を背景に立ち尽くす右眼に眼帯をした少女。
 里美。
 屈託のない笑顔に、輪郭が薄れるほどの透明感を持つ彼女は、虚構の中の存在のように思えた。言うなれば、儚げ。妹は誰よりも美しい。
「いえ、この方が桜泣きを書いたと思うと……感慨深くて――」
「妹にそんな才能があったなんて知りませんでした。少し複雑です」
「複雑……?」
「はい、妹は私が努力してきたものをひょいと越えてしまうので」
「あなたも小説を?」
「はい。……そう呼べるほどの物でもないかもしれませんが」
 女性は線香を立て、居間に戻る。
「今日は、妹さんの「桜泣き」の書籍化についてのご相談に参りましたが……――沙羅さんのご不幸、改めてお悔やみ申し上げます」
 女性がそう言うので、私は軽く頭を下げた。
「こう言うことを聞くのは野暮だと思いますが、沙羅さんはなぜ……」

 妹は、沙羅は、
「自殺です、私が家から帰ると首を吊っていました」
 淡々と述べると、女性は寂しそうな表情を浮かべた。
「……やはりと言うべきか。小説家というのは歴史的にみても自殺者が多くて、しかし最近そういう話は聞かなかったので、つい」
 その後、女性は沙羅のことを教えて欲しいと言った。
 だから私は語ろう。
 妹のことを。

 六/
 沙羅こと里美は所謂不登校児であった。
 小学四年生、学校での不祥事がきっかけで私と妹の共同部屋から出ることは無くなった。そのことは私も家族も触れなかったが、簡単にいうと虐めみたいなものだ。
 しかし、簡単に言えても簡単に解決しないのが現代の虐めというものだ。妹が通えなかった小学校、中学校を終え、感じたことだ。

 私は妹をどうにかして楽しませてあげたくて、学校で借りた本を返却日まで部屋に置いていた。それを妹は辞書を使いながら読んでいた。

 妹はきっと、私のことが好きだったと思う。
 勿論、私も好きだった。
 しかし、妹と私の立場が反対ならきっと妹は私を祝福しただろう。それが出来ない私は、やはり里美よりも劣っているのだろうか。それは向上心ゆえの自然な感情と言えるだろうか。

 これは触れようか迷ったが、目の前の女性が興味深く聞き入っているので、話そうと思った。

 学校の不祥事と言ったが、妹はそれに巻き込まれ、右眼の視力を完全に失った。無知ゆえに残酷な話だ。同級生の女子が妹の目に鉛筆を突き刺したという。衝撃的な話だ。私は、学校から帰って妹からその話を聞いた時に唖然とした。

 しかし、妹はそれほど落胆してはいなかった。むしろ格好いいと言っていたまでだ。

 妹には皆が気を使った、親がパソコンを買い与えたのもそれゆえだろう。しかし、妹は私の前でほとんど利用していなかった。最初はキーボードの打ち方もままならなかっただろうに、彼女には時間があった。だから仕方ない。妹が賞を取るのは、仕方ない……。――、本当に?

 いや、
 きっと違う。

 七/
「妹さんは天才だったのですね」
 そう、きっと妹には才能があった。
 そう、信じたい。
 
「いえ、妹は違います」
 しかし、私は見てしまった。
「桜泣き」以外の長編を百作品以上。
 それが保存されているファイルを。

「彼女は、努力をしていました」
 その時、初めて妹を妹としてではなく、沙羅として意識した。それが何を意味するか、分からなかった。

「それで、桜泣きの書籍化の件なのですが、一応本人の同意がなければこちらとしてもどうしようもなくて、――こういう状況ですので、姉の……」
「遥です」
「遥さんの同意ということになるのですが……」

 勿論、「桜泣き」が世に出れば大ヒットを飛ばすだろう。私もそれを望んでいるはずだ。大好きな妹の作品なのだから。

 しかし、妹よ。
 お前はどうしたい。私はどうすればよい。
 まず、お前がどうして小説を書いたのかも分からないのに。

 私は、女性に時間を時間を貰い、二階に走った。そしてパソコンを立ち上げる。
 大量の作品ファイルの中に、何か無いかと、必死に探した。そして私は見付けた。

「遺書」と書かれたファイルを。

 八/
「遺書」 里美
 という文から始まった。
 沙羅ではなく、どうやら里美自身が書いたらしい。
 私は、――それを読んだ。そして。

「桜泣きの話なんですが、書籍化の方はお断りさせていただきます」
 私がそう言うと、女性は唖然とした。そして落胆した様子で、
「それは、姉のあなたが嫉妬、しているだけではなくて?」
「いえ、妹の意思です」
「本当ですか?」
「本当です。妹は私に遺書を遺していました」
「それを――」
「すみませんが、それは出来ません」
「……、……」
「賞金は妹の好きだったものに使わせて貰います」

 女性は失望したように立ち上がり、靴を履いた。
「本当に惜しいことをしました。あなたも私も、彼女も、世の中も」
「そうかもしれませんね。でも私は違います」
「そうですか、妹のおかげでせいぜいあなたの駄文が少しでも変われば良いですね」
 嫌味を言われた。
 手が出そうになったが、妹のことを思うと、そういう行動も慎みたくなる。
「大丈夫です。世間は近いうちに新しい才能を知ります」
「ほう、それがあなたと」
「私がもう一本の沙羅になります。知ってますか? 沙羅双樹は二本で一つなんですよ」
 私がそう言うと、女性は微笑んだ。
「楽しみにしています」
 女性はそう言い残して去って行った。

 九/
「遺書」 里美

 お姉ちゃん。
 私の大好きなお姉ちゃん。
 これを見ている時、あなたは何歳でしょうか。
 何歳だろうと、私は居ないでしょう。

 両親には本当にお世話になりました。そして親不孝ものですみません。ご飯、いつも美味しかったです。

 お姉ちゃん。
 私、小説書いてるの。
 そして多分、もう少ししたらお金が届く。
 それはお姉ちゃんにあげるから好きに使ってください。これくらいで恩返しっていうには少ないくらいだと思うけれど、お許しください。私が小説を書き始めたのは、お姉ちゃんのおかげです。お姉ちゃんが貸してくれてた本、そしてお姉ちゃんが小説書いてること知ってた。ごめんね。

 私は本当に駄目な人間だから。
 駄目な人間だけど、何か遺したかった。
 だから、小説を描き始めたの。だけれど難しいね。満足いくものが中々書けなかった。
 でもね、出来たんだ。最高傑作。
 私とお姉ちゃんの話、――「桜泣き」
 もうすぐ死ぬ私と、使用人の優しいお姉ちゃんが山奥でただひたすらに暮らす話。
 もう私はこれ以上のものを書けない。

 お姉ちゃん、
 私はね、やっと出来たんだ。お姉ちゃんに誇れること。

 ずっと、辛かった。
 お姉ちゃんごめんね。
 天国から見守りたいけれど、こんな私は地獄かもね。なんちゃって。
 本当にありがとう。さようなら。

 追伸。
 もし、私の作品が世に出ることになったら、断ってね。私とお姉ちゃんのために書いた物語だから。
 お姉ちゃんの小説、面白いと思うよ。

 沙羅より。


 十/
 事が済み、私は近所の墓へと足を運んだ。
 ずっと避けていた妹の墓参りだ。
 そして、妹を目の前にして実感した。
「私の妹は、本当にこの世には居ないらしい」
 溢れそうになる涙を、我慢した。

 私は、これから小説を書かなければならない。
 何作も、きっと何百、何千作も。
 私は元より努力しかない人間じゃないか。才能なんて言葉並べる前に書き続けるしかないんだ。

 妹よ、お前は素晴らしい姉を持ったぞ。
 そして私も、素晴らしい妹を持った。


 夏が終わる。
 私は庭に沢山の沙羅の木を植えた。
 縁側で寝転ぶ私は、静かに香る匂いを懐かしく感じると同時に、おもむろに立ち上がった。

 そして机に向かう。
 私は原稿用紙派だ。削りに削った鉛筆を強く握り、題名を書き殴る。

 これから何千と作品を書き、いずれ有名となる著者の本当の処女作。
 その作品の名は、――。


「沙羅と夏」
 とても、良い響きである。



 了/「沙羅と夏」

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