【短編小説】「誰そ彼」
或る秋の夕暮。
私は缶コーヒーを片手に延々と続くかと思われる階段を静かに降りていた。昨日の天気は雨であった、故にコンクリートは湿り、駅のホームには悶々とした空気が漂っている。明るい地上から地下鉄のプラットフォームへと降りて行く様子は地獄へと堕落していくように感じ高揚感というか、不吉感というか、得体の知れない感情が震える。さもありなん、私は既に堕落した人間なのだ。純情と気遣いは五年前の箱根で、愛と希望は一昨年の伊豆で棄てたのだ。――そうして先程、人生と未来を手放して来た。
嗚呼、母親の子宮からやり直せるのなら、どうか来世は深窓の御令嬢にでもしてください。どう間違えても安心安定という言葉に惹かれ、駅前通りの新聞会社なんぞには就職しないように。貴様は何も出来ない屑だ。せいぜい、水溜まりで溺れた蟻ん子のように陰鬱とした世の中で浮かんでいるがよい。野垂れ死ぬなら勝手にしろ。生き恥を晒すな。
私は空になった缶をゴミ箱に放ってみた。三分後の入構を告げるアナウンスが騒騒しい地下に流れた。私は自動販売機横の柱に凭れた。そうして横切っていく彼らを軽蔑してみる。が、しかし彼らでさえも確りと前を見据えている。それに比べ私はどうであろうか、たくさんのものを手放し残ったものは、持病と嫌に多大な自尊心だけではないか……!
ポケットに手を入れてみる、と小銭が何枚か転げていた。しかしそれを取り出して何かしようと云う企みは浮かばなかった。私はいつも通り顔を下げ、水溜まりと会話を始める。そんなに地獄へ行きたいか、と誰かの声がする。言の葉の主は私であった。
ふと、視線の延長線上――向かいの柱下に汚れを見付ける。真新しい柱にあるはずもないそれに私は不思議と悦びを感じた。それは一種のエロスだったのかも知れない。私は背を丸めたままずるずると近付いて行き、その場にしゃがみ込んだ。そうして分かったことだが、それは汚れなどではなかった。
誰そ彼。
ただひと言、達筆ながらも震えた字がそこにはあった。夕暮、人々は互いの判別がつかなくなった際に「あなたは誰ですか」という意を込めて誰そ彼、と言った。その文字が何を表すのか。意味なんてないのかも知れない。学校で覚えたばかりの言葉を学生がいたずらに書いたのか、――この寂寞とした世間に顔向け出来ないような同胞を求め、これを書いたのか。されど私は、蜘蛛の糸を見付けたような心持ちであった。それほど私は堕ちていたのだろうか……。そしていつから此処が自分の居場所だと決めつけていたのだろう。
列車が来る。人々は規律通り並び始め、今か今かと貧乏ゆすりをする。世の全てを蔑み、己自身さえも貶めた私は、いつから自分が居る場所全てを地獄だと錯覚していたのだろう。全てを手放し、人生からも見放されたと思っていたが、まだ私には銭が残っているではないか。
何を燻っているのだ、屑よ。屑なら屑らしく下劣で醜穢に、人より長く生きてみてはどうだ。
私は階段を上る。蜘蛛の糸を伝い、この荒涼とした世を脱するのだ。決して踏み外さないよう、足元を見ていたはずの視線は徐々に徐々にと上がり始める。私は柄にもなく、空と云うやつを一瞥してみた。眩しい哉。そこには――私の頭上には今にも陽を畳もうとしている空がだだっ広く存在していた。この景色の下に死にたい、そう思った。
「誰そ彼」
ふと口を衝いて出たそんな言葉は、この風光明媚な景色を見る切っ掛けとなった彼、又は彼女に送ろう。ポケットに手を入れ、空を仰ぐ。足を進めると風が立つ。――甚だ機嫌麗しい私は、帰りにこの銭で、気が冷めた時の麻縄と虎屋の羊羹を買って帰ろうと企んだ。まだ秋は終わらないようだから。
了
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