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修論を手放す瞬間と、藤井風『満ちていく』との邂逅
修論審査が終わった。
これで修論には一区切りがついたことになる。
前にも少し書いたが、書き終えたことに対する爽快感は微塵もない。
むしろ、いよいよどうにもならなくなってしまったと思う。
修論の出来に自信がないわけではない。自分が修論で取り組んだ内容及び成果は、多くの職業研究者を前にしても、胸を張って示していいと思う。しかしながら、修論の出来とは無関係に、いよいよ手遅れに、どうにもならなくなったという実感がある。修論を書く作業に従事する中で共に流れていた時間が、デッドラインを境に断ち切られる。その時間の重みを、改めて感じている。
修論審査を終え、家に帰る道すがら、ふと藤井風『満ちていく』を聴きたくなった。
僕は普段藤井風を好んで聴かない。大変失礼だが、「退屈な割に大袈裟」という印象を持っていた。けれど、なぜかそのタイミングで『満ちていく』を聴きたくなった。
終わるもの、変わりゆくものに対して、仕方がないねと手を離す。
どうしようもないことに対して、身を委ねるように手放していく。
その時に感じる、魂が軽くなるような気持ち。
長らく手元にあった修論を手放した時、そんな気持ちがしたのだ。
魂が軽くなる気持ち。それはおそらく、軽やかさともまた違うものだ。嬉しいことや楽しいことがあって心が跳ね上がるような気持ちを軽やかさだというのならば、今の気持ちは軽やかでは無い。重荷を外した風船のように浮き上がり、煙のようにどこかへと揺蕩うような気持ち。そんな心地がしたのだ。
その感情が「満ちていく」ものなのかはわからない。満ちていくような心地もするし、単純に失っていくような心地もするからだ。けれども、この気持ちをどこかに遺しておきたい。なぜだがそう思ったのだ。